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ねことボスゴリラと蝶々と

 そして現在に戻る。  後ろを振り返る度に増えていく、ボスゴリラの取り巻き。どれだけボスゴリラに気に入られたいのか、みんな必死な顔をして俺を追いかけてくる。いくら走ることが苦手じゃなくても、これだけ数がいると辛い。  ましてや相手はボスゴリラに命じられている一般人だ。いや、ボスゴリラも一般人なんだけど、ボスだしゴリラだから除外視して、ただの取り巻きに手を上げるほど俺は非道ではない。  チワワ達をいじめるのは、俺の動物愛護の精神に反する。 「ど……っ、どうしたら……はっ、くるし」  肺に酸素が上手く入っていかない。吸う量と吐く量の比率が合わなくて、どっちが足りないのかわからない。わからないけど苦しい。  漏れる息が短く切れ、胸の奥が痛くなる。握られた心臓を潰されかけているような、そんな錯覚に陥って前へ前へと伸ばした手が揺れる。  踏み込んだ足が縺れ、大きく身体が傾いた時に見えたのは。 「白い……ちょうちょ、う?」  場違いにも白い蝶だと思ったものは、よく見れば人間の手だった。まるで俺のことを手招きするように動くそれに導かれ、駆けていた足を緩やかな動きに変える。  頭では止まっては駄目だとわかっているのに、身体が勝手に動く。誘われているんじゃなく、来いと命令されている気分になる。柔らかく動いている目の前の手が、見えないリードを引っ張っているように思えるんだ。  その手は扉の隙間から出ていて、俺が近づいてきたことがわかると動きが止まった。すっと中に引っ込んだ手の後に見えたのは、淡い色の瞳で。不思議な色のそれは、開いた扉のほんの僅かな隙間から俺を見て緩い弧を描く。 「おいで」  声が聞こえた。  追いかけてくる取り巻きの騒々しい音の中で、はっきりと確かに聞こえた。 「それとも、捕まるのが好き?」  その声は低くもなく高くもなく、大きくもなく小さくもない。どんな音か言葉では表現できないほど、俺にとって初めて聞いた音だった。  優しい。綺麗。落ち着いている。甘い。爽やか。穏やか。どの言葉にも当てはまらない。そんな未知の音を奏でた唇が、また動く。 「ほら、こっちにおいで」  確かに誘う言葉だった。けれど白い蝶々……のような手が俺を掴んで、強引に部屋の中に引きずり込む。そして蝶々は消えた。俺が走ってきた廊下に出て、取り巻きのサルたちの群れに入って行った。  ぴしゃり、と扉が閉められる。 「ちょっ、おい!!あんた1人で勝てるわけないだろ!」  気を取り戻し閉ざされた扉を叩いても、全くビクともしない。ガタンガタンとそれが揺れるだけで、一向に開く気配がない。その扉1枚を隔てた向こうで、白い蝶々の影が動く。首を傾げたのだとわかった。 「何か用事?」  また、未知の声が聞こえる。決して大きくないのに、やけに耳に響くその音は続く。 「せっかく気持ち良く昼寝していたのに。廊下は走っちゃ駄目って、誰かに教えてもらわなかった?」 「――さんが、どうしてこんな場所に」 「だから昼寝だって。でも、誰かさんたちが騒ぐから目が覚めた」 「騒いでたのは柳で!俺たちは柳を捕まえようと……っ」  不意に自分の名前が出て心臓が跳ねる。  多勢に無勢とはこんな状況のことだ。いくら不思議な蝶々でも、見ず知らずの俺1人より大勢いる取り巻きの肩を持つに決まっている。  もう逃げられないと悟って流れる冷や汗。せめてここが2階程度なら窓から飛び降りたものの、4階じゃ逃げることもできない。  当たってしまった星占いを恨むけれど遅く、綺麗な蝶々に見惚れた俺が悪い。男の手だってわかっていたのに、それでも引き寄せられた俺が悪い。  今の俺は、扉の傍で聞き耳を立てているだけの無防備だ。ここで捕まれば、自ずとボスゴリラの元へと連行され、きっと屈辱的な仕打ちを受けるに決まっている。 「……っ、最悪だ。星占いのバカ!!」  恨む相手が多すぎて、誰に文句を言っていいかわからないけれど。最も的外れな相手を罵倒した俺の声が聞こえたのか、扉の向こうの蝶々が微かに笑った。

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