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あなたのお名前なんですか

 「あの。先輩の本当の名前、教えてもらえますか?」  やっとまともに話せて、蝶々が笑うのをやめた。せっかく綺麗に飛び交っていた光が収まって、もったいないと思いながらも俺は蝶々王子の返事を待つ。 「尋音。尋ねる音って書いて、ヒロネって読む。尋音でも蝶々でも、君の好きなように呼べばいい」  そう言った蝶々は、流行りに飽きたのか俺の立っている場所まで歩いてくる。落ち着いていて、美麗という言葉がぴったりな背が高くて少し細い身体。この人の長い手足は、やっぱり蝶々を彷彿とさせた。  俺を誘い込んだ白い手が、伸びてくる。スローモーションかと思うほど静かな動きで、胸ポケットに入れていた俺の学生証を奪い去っていく。そして、背表紙を開いた蝶々の目が輝いた気がした。 「柳……みい?珍しいけど……そうか。やっぱりそうだ」  何が『やっぱり』なのかは分からないけれど、蝶々に一言物申したい。俺の名前はそんな読み方じゃなくて、きっとその読み方をしてしまったら、蝶々も禁句を言ってしまう。  未伊と書いて『みい』とは読まない。百人に聞いたら百人が答えられない、特殊な名前を蝶々は知らない。俺が昔から何度もからかわれてきて、何度も怒って、何度も喧嘩になった禁句を蝶々は知らない。 「ミィちゃん。猫みたいで可愛いね」  にっこりと笑った蝶々は、案の定その一言を言ってしまった。   俺の名前は『みい』だなんて可愛げのある名前ではないのに。 「それ、ひでよしって読むんです。父親が豊臣秀吉の大ファンで、だけどその……当て字って言うか、絶対に読めない字にしちゃえばいいかって。それだけ漢字を変えていたら、秀吉様も許してくれるって。だから俺は『やなぎ ひでよし』が名前なんです……」  名づけの理由も情けなければ、漢字を選んだ理由はもっと情けない。恐らく赤くなっただろう顔を隠すように両手で覆う。とは言えど浮世離れしている蝶々だ。隠してしまった隙間をぬって、声という武器で俺を攻撃する。 「どんな理由であろうと、考えてつけてもらえた名前が羨ましいけどね」 「は?え?今、何て?」 「別になにもない。気にしないで」  蝶々は俺の学生証を眺め、学年とクラスと出席番号まで復唱してそれを閉じた。丁寧に元あった場所に戻してもくれる。 「1年2組、出席番号29番。うん、覚えた。これでミィちゃんを迎えに行くこともできるし、送り届けることもできる。でもミィちゃんは猫だから、そういうの嫌うのかな?」 「一体さっきから何を言って……る、んでしょうか?」  なぜ俺のクラスと番号を覚える必要があるんだろうか。普通なら、蝶々は猫から逃げるもんなんじゃないだろうか。  でも、この人は蝶々の王子様で俺は平々凡々な猫なわけで。  ともすれば生態系を覆す美貌を持った『蝶々』が、猫に勝ってもおかしくはない、のかもしれない。 「ゴリラと追いかけっこするより、蝶々と遊ぶ方が楽しいよ。ミィちゃん」  蝶々が誘ってくる。    そういえば、小さい頃に母さんから聞いた話を思い出した。お花を生けながら教えてくれた話だ。  蝶々は最も愛されている昆虫だって。その綺麗な紋様に夢中になって、命を懸けてまで収拾する人もいるくらいだって。それから魂や命の象徴としても扱われていて、人の命を復活させることもあれば、奪うこともあるって。だから、どんなに綺麗なでも強引に捕まえようとしちゃ駄目だよって言われた気がする。  綺麗だと遠くから眺めるだけ。絶対に触っちゃいけない。じゃないと大事なものを奪われてしまう。  けれど蝶々の王子様は自分から近づいてくる。自分から手を差し伸べて、自分から触れて、俺の小指に自身のそれを絡める。 「約束の指切り。蝶々に飼われる猫って、童話みたいで楽しいね」  囁きの後に指が離れて蝶々がいなくなる。部屋に残されたのは呆然と立ちすくむ俺で、相手のいなくなった指切りは変な形で静止したままだ。そこには僅かに温もりの名残があって、じっと見つめる。  あの人は何だったのだろうか。本当に実在するのだろうか。  幻としか思えない状況で、それでも夢でなく現実だと告げるものは残された体温だけ。      蝶々のように掴めなくて、王子様のように麗しい尋音先輩と出会った日。  1年で1番アンラッキーだと占いが言っていた日の話だ。  

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