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蝶々遊びの心得

 昨日はがむしゃらに走った道を、今日はゆっくりと歩く。  授業が全て終わるまで待とうかと思ったけれど、どうしても真相が気になって、俺は4時間目をサボって尋音先輩の元へ向かうことにした。右手に母さんが作ってくれた弁当、左手に自販機で買ったお茶を持ち、着実に前へと進む。  階段を上って4階まで行き、廊下を突き進んで目的の部屋の前へ。軽く2回ノックするけれど返事はなく、少しだけ躊躇った後に扉を開ける。  定位置なのか、今日も窓際にいる尋音先輩。壁に沿って腰を下ろし、長い右足を伸ばして反対の、これまた長い左足を立てて座っていた。 「こんにちは」  高校生らしくない挨拶の後に、おいでおいでと蝶のような手が呼ぶ。それに従って傍まで行くと、俺を見上げた尋音先輩の目が笑んだ。でも言葉はない。 「尋音先輩。ノックしたんだから、返事ぐらいしてください」 「どうして?」 「いないかと思ったし。それに、相手が誰かも確かめずに入れるなんて不用心ですよ」  勝手に入ってきたくせにそう言うと、尋音先輩が瞬いた。次いで、ふわっと笑う。 「ここにはミィちゃんしか近づかないから、それは大丈夫」 「そんなのわからないですよ。廊下に門があるわけじゃないんだから、来ようと思ったら誰だって簡単に入れちゃいます」 「来ないよ」  それは尋音先輩が愛知尋音だからだろうか。先輩が来るなと言ったから、みんながここを避けている……ってことで合っているはずだ。先輩の自信の表れが証明してくれている。  悔しいのか悲しいのか、由比の言う通りになってしまって落胆する。尋音先輩はあのボスゴリラと違うと思っていたのに、ボスゴリラ以上に俺様で嫌な気持ちになった。 「先輩、朝からずっとここにいたんですか?」 「うん。ミィちゃんがいつ来るかわからないから」 「じゃあ鞄は?教室ですか?」 「鞄……って何?」  まるで初めて聞いた単語のように、尋音先輩が不思議そうな顔をする。そして、俺の予想だにしなかった返事を返してくる。 「鞄なんて持っていないけど」 「持ってないって、じゃあ教科書とか辞書は?筆記用具も何もなくて、どうやって授業受けるんですか?」 「ミィちゃんはやっぱり変わってるね。授業なんて今まで1度も受けたことないよ。だから教科書も辞書も、何も要らない」  尋音先輩が笑うと光を反射した髪がキラキラと輝く。ミルクティーみたいに淡くて、ピンク色も入っているらしい謎色の髪は、光を浴びると金色にも見えた。本当に不思議な色だ。   「尋音先輩。その髪の色って地毛じゃないですよね?」  立ったまま質問ばかりする俺を、尋音先輩は怒ったりしない。見下ろすなとか、鬱陶しいとか言わない。緩く笑ったままの唇で、聞いたこと全てに答えてくれる。 「この色は地毛らしいよ。俺はそんなこと一言も言ってないのに、みんな地毛だから仕方ないって許してくれる。俺の両親も祖父母も、曾祖父母も日本人なのにね。おかしな話」  おかしいのは先輩の方なのに。自分の話を他人事のように話して、違和感もなく受け入れてしまう。そこに先輩の意思は必要ないみたいな口調で。  こうして理解の範疇を軽く超えてしまうのは、俺が平凡で先輩が非凡だからだから、だろうか。それ以外の理由が見つからない。 「尋音先輩と恋……じゃなくて。仲良くなろうと思ったら、予約して順番を待たなきゃ駄目って聞きました。それも本当なんですか?」  生唾の塊が喉を通って、自分が緊張していることがわかった。昨日会ったばかりの相手に噂の真相を尋ねているだけなのに。なぜか妙にドキドキして、手のひらに汗が滲む。 「そんな話、あり得ないですよね?」  否定してくれることを願って、俺はもう一度問いかける。    真っすぐに見つめる平凡な俺を、王子様の尋音先輩が見つめ返す。俺とは違って、くっきりと幅の広い二重に、目の縁を敷き詰める長い睫毛。  計算されて作られたように、全てが整った人。  髪の毛に合わせてヘーゼル色に彩ってある瞳は優しい色をしていて、俺を拒絶する素振りは全くない。でも、親しみは感じない。優しいけれど優しくない人だ。  その瞳が、楽しげに揺れた。 「今日のミィちゃんは質問が多いね。猫も好奇心旺盛なのかな?」 「先輩、そうじゃなくて。俺の質問に答えてください」 「ああ。さっきの質問の答えなら、ミィちゃんの言った通りなんじゃないかな。予約とか順番とかは知らないけれど、みんな決まって1ヶ月でいなくなる。今までありがとうございましたって礼を言われたと思ったら、すぐまた新しい子が来るよ」  変だよね、と蝶々が笑う。さらさらの髪が宙を舞う度に、尋音先輩の周りだけが白く霞んでいくような感じがして、俺は自分自身の瞼を閉じて開いて、なんとかその靄を消そうとした。  でも消えない。その靄の中で、先輩は俺を見ているだけだ。 「ミィちゃんは猫だから、そんなルール守らなくていいよ。好きな時に会いに来て、困ったら俺に助けを求めて、たまに甘えてくれると嬉しいかな」  先輩が言う。

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