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蝶々遊びの心得

 甘く蕩ける完璧な微笑みをくれた先輩が、ブレザーの胸ポケットを探る。微かに聞こえた高くて細い音に、何かと思ったら……まさかまさかだった。 「これ、ミィちゃんに。本物の首輪にしようかと思ったんだけど、さすがに首輪を付けて生活するのは抵抗あるかなと思って」  尋音先輩の手の上で転がったそれが、再び音を奏でる。はっきりと耳に届いたチリンという音が、嘘だろと思う俺に駄目出しをしやがる。夢であってくれという願いをぶち壊す音は、あまりに可愛すぎた。  俺が蝶々だと見間違った手に、黒くて細い革紐に繋がれた鈴。キラキラと輝く鈴の色は、尋音先輩の髪の色と同色のようで少し違って、でも綺麗な色だった。  あまりにも綺麗すぎて足が竦む。 「先輩、これ……」  驚きで身動きが取れなくなった俺を見て、ふっと笑った尋音先輩が立ち上がる。すると、見下ろしていた視線が逆になり、今度は俺が先輩を見上げる形になった。  嫌だと思うのに動けなくて。触るなと思うのに、伸ばされた手を振り払うことはできなくて。  そして、先輩の白い手が俺の首の後ろを撫でる。 「ミィちゃん、俺ね」  両手を俺の首の裏に回した尋音先輩が、俺の耳元で囁く。決して大きくはない尋音先輩の声が、鼓膜を揺さぶって脳に届き、謎の痺れが全身に広がる。  カチッと音が鳴った後、肌に触れたのは冷たい金属の感触。左右の鎖骨の間に鈴は収まり、俺の体温を吸収して温まっていく。じわじわと俺と鈴はひとつになる。 「ミィちゃんにこれを着けるのが楽しみで、昨日は一睡もできなかったんだよ。何度も頭の中でシュミレーションして、何度も何度も想像したけど現実とは全然違う」  尋音先輩が俺の首につけたのは、小さな鈴が通された革紐のネックレスだった。ブラウスの第二ボタンを外せば見える位置でそれは揺れ、音を奏でて存在を主張する。 「本当、全然違う」  うっとりと呟いた先輩の指が、首の裏を辿る。そして行きついたのは、ネックレスの留め具の部分だ。そこに触れた瞬間、先輩は口の端を左右対称に上げ、勢いよく指を引く。 「せんぱっ……!!」  途端に革の紐が肌へと食い込んだ。鎖骨の位置にあった鈴が上へ上へと昇ってきて、喉仏に引っかかってチリンとまた鳴る。俺の息が苦しくなればなるほど、チリンチリンと可愛い音が部屋に響く。  俺の息を詰めた紐は、ネックレスの長さから一瞬にして変わった。自身の存在を隠そうともせず、見せつけるかのように首に巻きついて離れなくなった。 「ミィちゃん。これは長さを調整すれば首輪にもなるんだよ。やっぱり本物の方が似合う」  先輩が鈴を指先で弾く度それは鳴く。俺の意思に反して、先輩に触れられて喜んでいるみたいに高い声を上げる。 「これ、外したらきっついお仕置きするからね」  尋音先輩には誰も逆らえない。だからこれは絶対の命令で、逆らったら俺も、俺の家族もどうなるかわからない。この人なら俺なんかどうとだってできる。  それでも俺は頷きたくなかった。ボスゴリラに追われるのも嫌だけど、こうしてじわじわと追い込まれるのはもっと嫌だ。こんな風に扱われるなら、追いかけっこをする方が何百倍もマシだとすら思える。  先輩は、ふわふわと笑う穏やかな人だと思った。綺麗な蝶々で麗しい王子様で、浮世離れした発言が多いけど、ずっと微笑んでいる人。優しい人。  そうだった、そうであるに違いないと信じていた先輩が鈴に唇を寄せる。今も尚、緩やかな弧を描く口元から覗かせた舌で音を立てる。  俺が、先輩の飼い猫だという音。  先輩が、俺の飼い主だという音。  まるで童話みたいだと比喩した関係は、そんな夢みたいなものじゃない。俺が捕まったのは、触れてはいけない蝶だった。  愛知尋音は王様で、蝶々の王子様で、俺の飼い主だ。 「可愛く鳴いて気まぐれに振り回して、俺を楽しませてね。ミィちゃん」  俺は、先輩と出会った日に観た星占いを一生をかけて呪ってやる。あの占いさえなければ、こんなことにならなかったと、考えれば考えるほど恨みがましい。  けれど、あの占いはある意味外れていたんじゃないかとも思う。  1年で最もアンラッキーな日に出会った先輩。昨日は助けてくれた彼が、1日経って頭のおかしい王子様に変わった今日。本当にアンラッキーなのは、昨日じゃなくて今日なのではないだろうか。  いや、今となっては昨日でも今日でも、もうどちらでもいいけど。とにかく言えることは1つだ。  蝶々王子は病んでいる。

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