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アイチヒロネ

 ****  朝、目が覚めて見上げるのは見慣れた自室の天井だ。寝起きは良い方だし朝は苦痛ではないけれど、今日だけはずっと寝ていたいと思ってしまう。その原因は胸元にあるコイツのせいだ。身じろぐと必ず鳴る鈴の音が、昨日の出来事を嫌でも思い出させる。  ちなみに、眠る時まで身に着けているのは、蝶々の飼い猫になった自覚があるわけではない。もしそんなものが芽生えようものなら、俺はそれをフルスイングで打ち飛ばしてやる。力任せに振ったバットがきっと、その自覚を遥か遠くへと運んでくれるはずだろう。  じゃあなぜか着けているかというと、1度でも外してしまうとまた着けるのが絶対に嫌になるからだ。せっかく外したものを、自分から身に着けるなんて死んでも嫌だ。 「未伊、おはよう」  リビングのソファに座ってテレビを観ていると、部屋着姿の兄ちゃんが起きてきた。いつもならとっくに仕事に出ているはずなのに、今日は随分とゆっくりだ。 「兄ちゃん、今日は仕事休み?」 「有給がかなり溜まっててな。上が使え使えって煩いから、この際1週間も休んでやることにした」  俺のいない1週間、俺の分まで必死に働けばいいと黒く笑う兄ちゃんは、悪者みたいに見える。けれど、兄ちゃんがそんな仕返しをするのは決まって自分の上司で、自分よりも立場が上の相手にしか強く出ない。  母さんからの教えは俺だけじゃなく、兄ちゃんや姉ちゃんにも浸透している。弱い者をいじめるな、理不尽な仕打ちに屈するな、しっかりと自分を貫けと言われてきたのに、今の俺は真逆だ。  鈴の音が鳴らないよう、制服のブラウスの上からそれを握る。この音は俺にとって敗北の印だから。 「どうした?胸なんか押さえて、具合でも悪いのか?」  胸元に手をやり、黙り込む俺を兄ちゃんが心配そうな顔で見る。俺は咄嗟に笑顔を作り否定したけれど、服の中で微かにチリン、とあれが鳴った。テレビの音に紛れたその音が、脳内にこびりついて消えない。 「未伊。お前も無理せず休めよ」 「無理せずって、いつも残業ばっかりの兄ちゃんに言われたくない」 「バカか。俺はこれから1週間死ぬほど休む。今夜から毎晩飲み会だしな」 「休むのに死ぬって何だよ。休みだからって、調子にのってあんまり飲み過ぎんなよ」 「それ、母さんにも言われた。弟にまで心配されなくても、自分の限界は知ってるから大丈夫だ」  軽く笑った兄さんがテレビのチャンネルを変える。するとタイミング悪く番組が終わったところで、繋ぎのコマーシャルが流れていた。  最近人気の女優が白いワンピースを着て、彼氏役の男とデートしてる設定。新しく買ったリップか何かを、褒めてもらって笑っている。隣で兄さんが「この子可愛い」と言ったけれど、俺の意識は違うところにある。  最後に流れた化粧品メーカーの名前だ。アルファベットの『A』から始まる英単語っぽいそれは、昨日俺が初めて知ったブランド。  今までなら気にもしなかったはずのブランド。あの蝶々王子の名前の頭文字と同じ。  俺は勉強はそこまで得意じゃないけど、だからと言って特別バカでもない。それなりに自由に生活させてもらっている分、世間知らずでもない。確かに愛知の名前は知らなかったが、意識して見るとテレビで、新聞で、街中で。その名前を見かけないことはなかった。  さっきのコマーシャルで流れていた化粧品会社は愛知家の子会社らしいし、新聞には愛知家が主催するゴルフコンペが行われたと書かれている。駅から家に帰る道すがらにある高層マンションは、管理会社が愛知だった。  全てに、あの頭のおかしな蝶々の家が関係していた。

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