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蝶々ひらり、ひらひら蝶々

「え……っと。尋音先輩?」 「うん。少し呼ぶのが遅いね、ミィちゃん」  2階から落ちた俺を抱きとめてくれたのは、愛知尋音先輩だった。この痩躯のどこにそんな力があるのか、俺を横抱きに受け止めて、首を傾げる。 「ミィちゃんは高いところが苦手な猫なの?」 「は……や、別に。苦手なわけではない……ですけど」 「それとも、ミィちゃん自身は飛ぶつもりがなかったとか?」  ゆっくりと顔を上げた先輩が見つめるのは、俺が落ちた窓だ。そこには綺麗な顔の取り巻きがまだ立っていて、離れていても青ざめた表情をしていることがわかる。落ちた俺を心配してくれたんだろう。  でも、事故とはいえ、俺が落ちたことに変わりはない。そして偶然とはいえ、そこに尋音先輩がいたことにも変わりはない。  そしてそして。その事件現場に今も残っているとなれば……。 「なるほど」  ゾッとするほどの低い声で呟いた先輩が目を伏せる。胸元に抱かれていても、先輩の顔が一変したことがわかった。全く笑っていなかった。俺が本能的に怖いと思った、あの顔をしていたんだ。  これは非常にマズい。頭の中で緊急事態のアラームが鳴り響き、どうしようとかいた汗は、窓から落ちると思った時よりも多いぐらいだ。 「ひっ、尋音先輩!!」  先輩のブレザーの襟を引っ張り、こちらを向けと促すけれど、先輩の視線が向くのは1カ所だけ。真っ青から真っ白に顔色を変えた、あの取り巻きだけ。 「違っ……僕は、違う。違うんです!」  違う違うと首を振る取り巻きに、俺もその通りだと何度も告げる。尋音先輩と呼んで、勘違いだと言って。けれど尋音先輩は、俺の話を聞くどころかこちらを見ようともしない。  どれだけ時が経っただろう。黙って窓を見上げる先輩と、動けなくて立ち竦む取り巻きサルと、未だ抱かれたままの俺と。3人で抱える沈黙を破ったのは、やはり蝶々の王子様だった。 「顔、覚えた」  たった一言。尋音先輩のその一言だけで、取り巻きが崩れ落ちる。俺のいる場所から見えるのはサルの指だけ。俺を捕まえようとし、助けようとした細い指だけだ。 「さあ帰るよ。ミィちゃんの家まで送って行く」 「尋音先輩、ちょっと待ってください!」 「忘れ物でもした?」 「そうじゃなくて!とりあえず降ろして!」  今の俺は、いわゆるお姫様抱っこというやつで。これで俺が絶世のお姫様とまではいかなくても、評判の良い街娘なら絵になっていたかもしれない。しかし悲しいことに、何度も言うけど俺は『平凡代表』だ。  それでも尋音先輩に俺のナイーブな気持ちは通じない。 「だってミィちゃん、内履きのままだし。降ろしたら明日履く物に困るでしょ」 「先輩はそんなの気にするタイプじゃないですよね?!」 「俺はいいの。でも、ミィちゃんは駄目」 「なんで……って、いいです答えなくて。聞かなくてもわかるんで」  そんなもの、答えは『愛知尋音だから』に決まってるじゃないか。俺自身でわかることを、わざわざ尋音先輩に教えてもらう必要などない。  不満ならがらも納得した俺を見て、尋音先輩が目を細める。そんな先輩の方こそ猫みたいだと思いながら顔を背けると、側頭部に温かい温もりを感じた。  尋音先輩が俺の頭に頬ずりしている。王子が、凡人に。 「何……してるんですか?」 「何って、手が使えないから他に撫でる方法がなくて」 「撫でる必要あります?」 「自分の飼い猫を撫でちゃ駄目なの?変なの」  変なのはあんただ。こんな一般人を相手にして、何が楽しいんだか。そうは思っても相手が麗しの蝶々だから嫌悪感はなく、それはそれでマズいと思いながら先輩の胸を押す。 「とにかく、内履きなら予備があるんで降ろしてもらって大丈夫です」  理由があれば先輩は従ってくれるらしい。おとなしく俺を地面に降ろすと、今度は手で頭を撫でられた。けれどすぐに止まった。  俺の髪を梳いていた先輩の指先が離れ、俺から視線を外した先輩が見るのは、斜め先に立つ1人の生徒。見覚えのないそいつは、戸惑いつつも静かに近寄って来る。 「あの……」 見知らぬ生徒から聞こえたのは、あまり好きじゃない声だった。 直感でそう感じた。

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