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蝶々ひらり、ひらひら蝶々

 第一声を聞いて、きっとこの人は気が弱くておとなしい性格なのだと思った。続きを紡ぐことなく、しっかりと締まった唇。右へ左へと移動する視線は、緊張しているのかもしれない。声も仕草も、身にまとう空気ですら俺とは真逆の弱々しい感じだ。  俺のことを気にしつつも睨んでこないのは、この人がボスゴリラの取り巻きではないからだ。そのことに安心しつつも様子を見る俺と、全く考えの読めない尋音先輩。その先輩の口が開いた。 「もしかして1ヶ月経った?」 「はい。あの……今日からよろしくお願いします」 「うん、よろしく」  何をよろしくするのか、俺を置いて2人だけの会話を交わす先輩を見つめる。そして話しかけてきた『その人』を見ると、息を詰めて思いきり顔を背けられた。  そりゃそうだ。だって俺は、ついさっきまで先輩にお姫様抱っこされていたのだから。先輩とこの人がどんな関係かは知らないけれど、この中で1番の不審者は俺に違いない。そして場違いなのも俺だ。 「愛知、くん」  尋音先輩のことを『先輩』と呼ばないってことは、この人は俺より年上なのだろう。そう言えば、尋音先輩が何年生なのか聞いていなかったことを思い出し、今さら聞くべきなのだろうかと思案する。  先輩の教室を避ける為にもクラスは聞いておくべきだけど、そもそも尋音先輩は授業に出ないのだから必要ないし……なんて考えている俺の目の前で、おとなしそうな『その人』が動いた。  急に正面から俺を見たかと思えば、すぐに目をそらして尋音先輩を見つめる。それは別になんてことない仕草だったのに、なぜか妙に印象的で、記憶に残る一連の流れだった。  『その人』が尋音先輩の腕に手を当て、つま先立ちになって顔を寄せる。  初めて見る生のキスシーンは、ドラマのようにBGMが流れているわけではない。ただ単に唇と唇が触れ合っただけ。それなのに生々しくて、でも綺麗なものだったと思う。 「何?」  表情を変えずに問いかけた先輩に対し、その人が震えた声で答える。 「その……今日から恋人、なので」 「そう」 「駄目でしたか?」  初対面の相手に突然キスをされても、尋音先輩は全く動じない。怒ることもなければ振りほどくこともなく、訊ねられたことに「好きにすればいい」と答えるだけで、微動だにしない。  俺がまだ大事にとってあるキスを、誰ともしたことのないキスを当然のように受け入れる先輩。漫画で読む時ですら緊張する俺と違って、平然としている先輩。  この人は俺とは違い過ぎる。早く離れた方がいいと、頭が警告音を放つ。でもその音は俺にしか聞こえていなくて、先輩は当然のように俺の隣に立ったままだった。 「駄目じゃないなら、もう1回しても大丈夫ですか?」  俺の目の前で、大胆にも『その人』が尋音先輩に訊ねた。 「好きにすればって言ったはずだけど」 「でも……」  ここでやっと2人の視線が俺に向く。勝手におっぱじめたのはそちらなのに、なぜか俺の方が居心地が悪く感じられて……思わず顔を伏せてしまった。それを気遣いだと思ったのか、顔に似合わず大胆な『その人』の足が動いた。 「――ん……っ、ふ……ァ」  聞きたくもない吐息の音が聞こえる。見つめた地面の斜め上で、唇と唇が触れる気配がする。それから、どういう訳か微かな水音も。経験のない俺には知らない世界が、そこにはあった。 「は……ぁ……ごめんなさい。こんな、いきなり」  数秒が経って『その人』の声がまた始まった。何が『こんな』なのか考えたくもなくて、俺は伏せた頭をさらに下げた。このまま土の中に潜って、1人で家に帰りたいぐらいだ。 「別に。まあ……うん、1ヵ月よろしく」  俺の手を自然な流れで握った先輩がそれだけを言い残し、歩き出す。俺は、それを咄嗟に振り払った。やっと上げることのできた顔の真ん前で、尋音先輩は緩く笑っていた。

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