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蝶々のにゃんこ
懇切丁寧に説明しても駄目、情けに訴えかけても駄目。勢いで突破してやろうとしても駄目。そうなれば、俺に残された手段は1つだ。
真っすぐ腕を伸ばした先にあった、尋音先輩のネクタイを掴む。それを思い切り引き寄せれば、色の薄い髪が舞って、とても綺麗だけれど見惚れている場合じゃない。
「嫌だで何でも思い通りになる世の中じゃねぇんだよ。俺には俺の考えがあって、俺には俺の生活があんの。あんたの馬鹿げた遊びに付き合ってる時間なんて、1秒たりともない!」
言葉で伝わらないなら身体で教え込むまでだ。けれど言い負かせないからと言って、無抵抗の相手に拳を打つほど俺は落ちぶれちゃいない。俺は、正面切って正々堂々と戦うのが好きなんだ。
「先輩、俺と勝負しましょう」
「勝負?」
「昼休み。それまでに先輩が俺を捕まえたら、猫でもなんでもなってやります。その代わり、俺が逃げ切れたら全部なかったことにしてください。今後一切、俺には関わらないって約束も」
ぱち、ぱちと瞬きをした先輩の目が細く弧を描く。
「授業は?ミィちゃんは怒られるんじゃなかったっけ?」
「これからの平和な学校生活に比べたら、説教ぐらい喜んで受けてやる」
「ふぅん。で、そのゲームのルールは?」
「範囲は学校の中だけ。俺が逃げ切るか、先輩が俺を捕まえるかの簡単な追いかけっこです」
あの忌々しい追いかけっこを、まさか尋音先輩とすることになるとは思わなかったけど。それしか先輩に勝てそうなものがない今、俺に残された道はない。
だって、どう見ても先輩は運動とかしなさそうだから。必死で走ってる先輩なんて、全く想像つかないからだ。多少の狡さは大目に見てほしい。
この広い学校の中、時間は今から3時間もないだろう。かなり俺に有利な気もするけれど、黙って先輩を見つめれば、その唇の端がクッと上がった。
今までにない、初めて見る笑い方だった。
「いいよ。楽しそうだから乗ってあげる」
「絶対ですよ?負けた後で、自分が不利だとか言いっこなしですよ?」
「あ、俺が不利だって気づいてたんだ?ミィちゃん、なかなかずる賢いね」
ふっと笑った尋音先輩が壁にかかっている時計を指さす。
「じゃあ不利ついでにハンデをあげよう。30分間、俺はここから動かない」
「ハンデ?この状況で?」
「そう。そうでもしないと、多分1時間もしないうちに勝敗ついちゃうだろうからね」
あからさまに見下す台詞に、唇を噛んで耐える。文句の1つでも言ってやりたいけれど耐えるのは、先輩はわざと言ったんじゃないからだ。
先輩は本気で勝てるって信じてる。これだけ不利な条件を揃えても、俺が負けるって言い切ってやがる。それが悔しい。その自信をぶっ壊してやりたい。
「そうやって余裕ぶってると後悔しますからね。俺、こう見えても追いかけっこのプロなんで!」
「追いかけっこにプロなんてあるんだ?初めて知った。ミィちゃんは、やっぱり物知りだ」
「そんなこと言えるのも今だけですから!絶対に逃げ切りますから!!!」
目一杯睨みつけ、時計を見れば9時半を迎えたところだった。
すくっと立ち上がりゲーム開始の合図代わりに頭を下げる。そして部屋から駆け出した。
向かう先は決まっていないけれど、とにかく出来るだけ遠くを目指す。30分のハンデを絶対に後悔させてやると闘志を燃やし、途中にトラップまで仕掛けて遠く、遠くへ。
蝶々が飛んでこれないほど遠くへ俺は逃げる。
──そして30分後。
「さて。迷子の子猫ちゃん、探しに行かなきゃ」
ゆっくりと腰を上げた先輩が、楽しげに「わんっ」と犬の鳴き真似をした。その顔をもし俺が見ていたら、きっとこんな賭けなんてしなかっただろう。
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