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追いかけっこをしよう
伸ばした人差し指を向けるのは、俺の隣に座る香西。香西を指す元にいるのは、尋音先輩。そこにあの微笑みはない。無表情でゴリラを見て、薄く開いた口で何かを言った。
「──……ッ、まずい。柳、来い!」
「えっ?!わ、ちょ?!何?!」
「いいから来い!逃げなきゃ大変なことになる」
「大変なことって何だよ!」
力任せに引かれた腕が悲鳴を上げ、強引に立たされたことにより腰を変な方向に捻る。痛い痛いと文句を言う俺を、香西は無視して屋上から逃げ出した。
そこからは全力疾走なんて可愛いぐらいの全力だ。取り巻きに俺を追わせるのではなく、香西本人が俺を追いかければ一発なのでは……と思うぐらい、ボスゴリラの走るスピードは速い。
さすが野性のゴリラだ、なんて笑うことすらできない。
「こうっ……ざ、まっ……ちょ、苦しっ……無理、走れなっ」
「いいから走れ!捕まったら死ぬと思え!」
誰も追いかけてこないのに走って、走って、走らされて引きずられる。すぐに体力も底をつき、息すらままならないのに走れと強要される。
そうしてやっと俺が解放されたのは、走り回りすぎて自分の現在地がわからなくなってからだった。
「いいか、柳はここに隠れてろ。ちょっと暗くて狭いけど、ここなら見つからないから」
「え?なんで……って、ここどこ?」
「使わなくなった更衣室。ここなら滅多に人は来ないし、こんな汚いところに尋音は近寄らない」
「は?そんな場所があったなんて、俺知らないんだけど?!」
香西の言う通り、部屋には埃っぽい匂いが充満していた。使わなくなって電灯を変える必要もないのか、蛍光灯自体が取り去られている。天井近くにある小さな窓から差し込む光だけが頼りだ。使われなくなって、相当時間が経っているのがよくわかる。
「いいな。俺が尋音をひきつけるから、お前はじっとしてろ。奥の方に隠れて、扉は少しだけ開けておけよ」
「隠れるなら、扉は閉めた方がよくないか?」
「ここ、建付けが悪くて完全に閉めるとなかなか開かないんだよ。それこそハンマーか斧でぶっ壊すしかない」
なんでそんな建物を残したままなんだ。曲がりなりにも私立なのだから、早く撤去しちまえよ。今度校内にある意見箱にそう書いてやろうと決め、香西に頷く。
「ボスゴリラに助けられるのは癪だけど、わかった」
「助ける気なんかねぇよ。お前、さっきあいつが何て言ったのか分からなかったのか?」
「唇の動きだけで分かるわけないだろ」
「あいつ。尋音はさっき、俺に向かって『まずはお前』つったんだよ。だから柳より先に俺を狙ってくると思う」
どうして香西に読唇術の心得があるのかは、この際は置いておいて。
先輩が先に香西を狙うって言ったなら、俺よりも香西の方が隠れるべきだろう。それなのに自分が囮になるのは、俺を助けようとしてくれている……ってことで。
「なぁ。香西はツンデレなのか?ゴリラなツンデレって、それほど可愛くないぞ」
「今すぐ喋れなくして、そこのロッカーの中に放り込んでやろうか?」
遠慮しますと両手を上げると、勝ち誇った顔をした香西が出て行く。
言われた通り少しだけ扉を開けたまま、俺は部屋の奥へ腰を下ろした。
1人になった室内は薄暗いし、少し寒い。打ちっ放しのコンクリートは熱を吸収するはずなのに、日当たりが良くないからそれもない。
「こんなことならスマホ持ち歩けば良かった……」
先輩との真剣勝負だからと、余計な邪魔が入らないよう逃げる途中で靴箱に置いてきたそれ。手元にあれば明かり替わりになるし、時間つぶしにもなる。今が何時かも分かる。
ここはスピーカーも切ってあるのか、チャイムの音さえ聞こえない。
とにかく暗くて寒くて、1人きりの部屋で膝を抱える。香西が戻って来るまで、じっと耐えなきゃ……とは思うけれど、心細い。
それでも耐えて、何度目かのため息をついたその時。ガタリと嫌な音がした。開けていたはずの扉の隙間から、入ってくる光がなくなったことに気づく。
さらに暗くなった部屋で、急いで立ち上がって扉に手をかけるけど、ビクとも動かない。
脳裏に浮かぶのは、香西の台詞だ。
『完全に閉めると開かない。ハンマーか斧でぶっ壊すしかない』
ここにいれば安全だなんて、不確かな予想を信じ切った俺がバカだった。閉じ込められた部屋の中に響いた「助けて」は、きっと誰にも聞こえない。
柳未伊、絶体絶命の大ピンチである。
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