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追いかけっこをしよう
「尋音先輩」
背中を預けた扉は多分それほど厚くはない。だから大きな声を出さなくても平気だし、先輩は静かな人だから無意味に騒いだりしない。俺の声は、尋音先輩にしっかりと届く。
「先輩。尋音先輩、どうしよう。扉が開かなくて、ここから出られない」
「開かないって……それなら窓は?」
「あるけど、高くて手が届かない」
扉の向こうで尋音先輩の動く音が聞こえた。束の間の無音が続き、窓のある位置を確認したのか先輩が戻ってくる。
「うん、分かった。ミィちゃんは、そこで毛づくろいでもしていればいいよ」
ああ、先輩だなぁって思った。言うことも言い方も、声の出し方も先輩だ。
きっと先輩が呼んだら、助けなんてすぐ来ちゃうんだろう。俺だと誰にも届かない声も、先輩のそれなら大勢が拾おうとするんだろう。
だって先輩は特別だから。俺が平均の50点なら、先輩は100点じゃなく1000点ぐらいの人だからだ。
そうして、尋音先輩に言われた通り動かずにじっと待つ。先輩が何も話さないことが不安だけど、誰かに連絡を取ってるのかもしれないと思って耐えた。
どうせしばらくしたら「ミィちゃん」って呼ぶ彼の声が聞こえるんだろうと、そんなことを考えながら、唯一ある光の元を見つめる。
小さな窓から差し込む光が翳って、室内が暗くなって。何だろうと思って立ち上がると、その窓に歪なひびが入った。
1つ、また1つ。新しいひびが増えて、それ繋がっていく。ちいさな傷はやがて大きな模様を透明なガラスに描いた。俺はそれが砕け散っていく様子を誰よりも間近で見ていた。
ひびが模様になるのを。模様が崩れ落ちるのを。そして存在していたはずのガラスに穴が空くのを。
ガッ、という音の後に俺が掠めた窓の縁に指がかかる。辛うじてではなく、しっかりと桟を掴み、制服の袖口が見えたと思えば腕が入りこんでくる。
はめられていたガラスが見事に割れ、破片が辺りに散った。戻ってきた光の向こうから現れた手が鍵を外し、枠だけになった小窓を開いていく。
「お待たせ、ミィちゃん」
小窓と言っても、人が1人ぐらい通れそうなそこは細身の先輩なら余裕だったみたいで。割隙間から滑りこんできた先輩が、軽快な音と共に目の前に現れた。軽やかな着地の際に、ガラス片がもっと粉々に砕けた音がしたけれど、先輩の言葉にかき消されて聞こえない。
「ミィちゃん、怪我は?」
「え、な……いですけど。なんで?え……っと、どうやって?」
「どうやってって何のこと?」
「だってガラス割れて……なんで届いて」
不十分すぎる言葉での問いかけに、尋音先輩はにこやかな表情のまま返事をくれる。
「ガラス自体がかなり古くなっていたから、思いきり殴ったら割れた。窓の足元に壊れた長椅子が置いてあって、外からなら届いたよ」
ネクタイをぐるぐる巻きにした拳を、先輩が見せてくれる。
いくら保護してあるといっても、そこには小さな傷がたくさんできていて、先輩の綺麗な手が赤く滲んでいた。学校指定のネクタイが尋音先輩の血で汚れている。
「尋音先輩……それ……痛くないんですか?」
そんなわけあるはずがない。素手でガラスを割って、痛くないはずがない。それなのに先輩は緩く笑うだけだ。
「身体が受ける痛みなんて、一瞬のものだから平気。それよりも、ミィちゃんの方が辛そうに見える」
俺の目の前に片膝をつき、跪いた先輩が頬に触れる。傷ついていない方の手で肌を撫で、眉間に皺を寄せた。
「先輩?」
どうしたのだろうと上目遣いになる俺に、先輩がとった行動は制服のブレザーを脱ぐ、だった。脱いだばかりのそれを俺の身体にかけて苦笑する。
「顔色が悪い。1人で我慢できて偉いね。よく頑張りました」
ぽん、と頭を撫でては頑張ったと言われ。綺麗でもなんでもない髪を梳いては、もう大丈夫と宥められ。俺よりも尋音先輩の方が大変な状態なのに、先輩は自分のことよりも俺を心配してくれる。
この人のことが怖かったはずなのに、先輩から必死に逃げていたはずなのに……。
俺は由比でも香西でもなく、尋音先輩が来てくれて良かったと思ってしまった。
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