36 / 123

追いかけっこをしよう

 絶対にこんな場所には誰も来ないと思った。けど、心のどこかで1番に見つけてくれるのは尋音先輩の気もしていた。それは何も根拠のない予測だったけれど、なんとなくそうなる予感があった。  そして的中した。 「尋音先輩まで中に入って来たら、どうやってここにいるって知らせるんですか?」  先輩のブレザーは温かいとは言い難く、元々の体温が低い人なんだと思う。俺を探していても汗すらかいていないのか、嫌な臭いもしない。存在自体が謎な人だ。 「ああ。それならここに入る前に連絡しておいたよ。そのうち誰か来るんじゃないかな」 「じゃあ先輩は外で待ってても良かったのに。わざわざ窓を割ってまで入って来なくても」 「そんなことをしたら、ミィちゃんが1人になる。その選択肢は初めから無かったな」  先輩が肩を揺らすと小さな鈴の音が鳴って、嫌でもこの追いかけっこの始まりを思い出させる。小さくか細いその音に、こんなに和やかに話している場合じゃないって、責められているみたいだ。現実をみろって忠告されている気になる。 「勝負はミィちゃんの勝ち。ここを出たら、俺はミィちゃんには関わらない」  こんな時でも先輩は笑っていて、負けた悔しさなんて感じさせない。薄闇で表情の隅まではわからなくても、ひどく穏やかだ。 「そうですね。俺の勝ちです。なんか、試合に勝って勝負に負けた気がしないでもないけど」 「それってどう違うの?」 「ニュアンスの問題ですよ。深い意味はないです」 「ふぅん。ミィちゃんは、やっぱり物知りだ」  クスクスと先輩が笑うと、それを追いかけて鈴の音が鳴る。そのどちらが綺麗な音色か、そんなことを考えてしまう俺は変なのかもしれない。いや、かもしれないじゃなくて変だ。だって俺は今、数時間前とは全く違うことを思っているのだから。  どうして尋音先輩は負けたのに笑えるのだろう。  悔しいと思ってくれないことに、俺は悔しい。  どうして尋音先輩は、怪我をしてまで俺を助けてくれたのだろう。  助けてやったのだから言うことを聞けって言えばいいのに、言わないのだろう。  そんな駆け引きをする必要がないってことに、俺は切ない。  こう思ってしまうのは、香西の言っていたことが原因なのかもしれない。  尋音先輩は周りの全てを受け入れてしまうって話だ。  俺は先輩に少しは抗って、わがままを言ってもらいたい。俺は先輩が少しは何かに興味を示すところが見たい。  尋音先輩は俺にとって物珍しい初めての存在。自分と真逆の人。  ……だから気になる。それだけだ。 「先輩、確かに俺が勝ったけど、完全勝利って感じはないです。だって先輩なら、誰かを使ってもっと早く俺を見つけることもできたし。俺はそれを無しだって言わなかった」 「まあ……それはフェアじゃないかなって」 「それに、ハンデももらった。俺に有利な条件ばっかりで、こんなので勝っても嬉しくない」  腕を伸ばせば先輩のブレザーがずれ落ちる。俺の前で跪く先輩の前に突き出した手のひらを広げ、目線で訴えれば淡色の瞳が瞬いた。  先輩の方が猫みたいだと思ったことは、ここでは口にしない。 「1ヶ月。1ヶ月だけ、先輩の遊びに付き合います。その代わり、それが終わったら」  俺が出会った蝶々のような人。ひらひら飛んでいく尋音先輩は誰のものでもないから、独り占めしちゃいけない。ちゃんと順番を守って、予約をとって、決められた期間だけなら近くにいてもいい。  その期間は1ヶ月。みんな平等に定められた1ヶ月だけ。  そのルールさえ守れば尋音先輩は誰でも受け入れる。そこには、好きとか嫌いだとかの感情はない。尋音先輩は周りが決めたことに従い、周りが決めた人の相手をする。  先輩は、生活の全てを周りに合わせて生活する。 「……それが終わったら、正真正銘、俺と先輩は無関係です。そういうルールですもんね」  決められた期間が終われば、新しい誰かが俺の場所へと滑り込んでくるのだろう。そして尋音先輩は「よろしくね」って軽い言葉で受け入れる。  頭がおかしくて若干病んでいて、心の底から博愛主義。俺は、そんな先輩に偶然興味を持たれただけ。そして俺は、助けてもらった借りを作りたくないだけ。だからこれはお互いに納得した期間限定の遊びだ。  俺は自分の中でいくつも理由を挙げ、先輩から鈴を受け取る。  こうして1ヶ月という期限付きで、俺と蝶々王子の奇妙な関係が始まった。

ともだちにシェアしよう!