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蝶々と俺と、先輩とねこ

   * * * *  尋音先輩と奇妙な約束をして1週間と少し。  先輩は1日1回、必ず俺の前に現れる。それは朝の時もあれば昼休みの時もあって、恒例の放課後追いかけっこの時もある。先輩の気分でふらっと現れては中身のない会話をして、颯爽と去って行く。  俺は、その時以外の尋音先輩を知らない。あの先輩限定の部屋に1日中いるらしいけれど、そこで何をしているのか聞いたことがない。いつでも来てくれていいとは言われていても、なんだか行く気にはなれなかった。その理由は、自分でもはっきりとは分からない。 「柳。このページ、最初から間違ってる」  由比の指摘にハッとなった。今は由比に勉強を見てもらっている最中で、ぼんやりしている余裕なんて自分にはなかったはずだ。  顔に比例して頭の方も平凡な俺は、いつも必死に勉強して母さんの機嫌をとっている。なぜなら我が家の小遣いは、テストの点数で金額が変わるからだ。だから俺は、そろそろ始まる中間テストに向けて、苦手な教科をなんとかしなきゃいけない。 「最初から間違ってるなら先に言えよ。もう半分以上解いただろ」 「言ったよ。でもまさか、こんな初歩的な問題を間違えると思わないだろ。こんなの中学の復習だって」 「それは残念だな。俺は受験が終わったと同時に、中学の勉強とはサヨナラした」 「なに堂々とくだらないこと言ってんだよ。冗談はその平凡な顔だけにしろって」  呆れ半分、いや、8割呆れて返される。けれど、どれだけくだらないと言われても、忘れてしまったのは仕方ない。捨てた知識を、今さら都合よく拾いには行けないのだから。 「あー……最初からやり直しか。なあ由比、これを覚えていれば80点ぐらいは取れるって場所だけ教えて」 「そんなものあったら、俺の方が知りたいし。だいたいさ、勉強なら愛知先輩に聞けばいいだろ。俺だって自分の分で忙しいんだってば」 「由比は作られた秀才だもんな。チャラ眼鏡でオタクでガリ勉って、欲張り過ぎだと思うぞ」  言った突端に消しゴムが飛んできて、額に激突する。ペシンという可愛い音とは裏腹に、なかなかの痛みが額を襲った。 「そんなこと言うやつには教えてやらない。お前の飼い主様に頼めば?」 「飼い主って言うな」 「飼い主は飼い主だろ。こんなの甘んじて受け入れて、毎日にゃあにゃあ鳴いてんだから」  こんなの、と由比の指が触れるのは俺が着けている鈴。普段はしっかりと隠しているそれは、ネクタイをとって寛げた襟元から丸見えだった。 「鳴いてねぇし」 「どうだか。あの愛知先輩だろ、啼くのもすぐだな」 「今の絶対違う意味だった!」 「ほう。柳くんは国語だけは得意のようだ」  誰かこの偉そうなガリ勉の眼鏡をかち割ってくれ。それが無理なら、由比が大切にしている伊達政子の抱き枕をビリビリに破いてほしい。  そんなことを考えていても俺が頼れるのは由比しかおらず、我慢するしかないのも事実だから……と、ぐっと堪えてまた教科書と向き合う。すると、頭上から面白くなさそうな声が降ってくる。 「ほんと、柳はもっと愛知先輩を利用すればいいのに。先輩に呼ばれたって言えば、嫌な授業も出なくていいし、放課後の追いかけっこもなくなるよ」 「そんなこと絶対にしない。それに、あの追いかけっこは尋音先輩も了承の上、俺と香西の男の戦いだ」  追いかけっこを渋るかと思った先輩は、意外にも快くそれを受け入れた。ミィちゃんが楽しめればそれで良い、とあの綺麗すぎる笑顔と声で言われて拍子抜けしたことは記憶に新しい。 「なんかさー、愛知先輩ってマジでクラゲ。つか、幽霊。あの人の頭の中って、宇宙より宇宙だと思う」  俺の教科書の隅にクラゲの落書きをしつつ、由比が独り言のように続ける。 「愛知尋音、16歳。血液型はA型で身長は177cm。体重は……知らないけど、多分軽いでしょ。あと俺が知ってるのは勉強がクソできて、運動もクソできて、でもってクソほど金持ちで性格もクソ」 「由比。クソクソうるせぇ」 「それからクソ顔が良い。サボり魔のくせに煙草は吸わない、ふらっと現れては消えて、気づけばまた現れる。うわぁ……あの人、本当に幽霊なんじゃないの?」 「バカか。先輩にはちゃんと足があるだろ、嫌味なほど長い足がよ」  俺たちと同じ制服を着ているくせに、全く違うように思わせるのは、尋音先輩のスタイルが良いからだと思う。神様は先輩に家柄だけじゃなく、それに見合った外見と才能を与えたに違いない。  俺みたいな平凡だったらそれを持て余すけれど、先輩は当然のように自分のものにする。だから嫌味でもなければ自慢したりすることもない。  きっと先輩にとっては、自分の手足の長さやスタイルの良さすら『どうでもいいこと』なのだろう。

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