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蝶々と俺と、先輩とねこ

 背後で由比が顔を押さえた気配がした。とんでもない嘘だなって、背中に突き刺さる由比の線が言ってくる。でも仕方ない。だって相手はあの先輩だ。  俺がどんな理由をつけたとしても連れ去られるのは確実で、それなら移動手段を失くしてしまえばいいと思っただけ。いくら先輩でも、俺を担いで家まで帰るなんて言い出さないだろう。  我ながらの名回答に、我ながら感心し、我ながら自分はやればできる男だと内心で褒めた。すると先輩は、持っていた俺の鞄を放すでもなく、うっとりとするほどの艶やかな笑みを見せる。 「大丈夫だよ、今日は俺も電車で帰るから。ミィちゃんとお揃い」 「…………は?」 「ほら見て。これ」  未だかつて、これほど『お揃い』という言葉を恐れた時はない。世の中の男が彼女とのペアルックを嫌がる以上に、俺は心底それを嫌だと思った。なのに先輩は、スラックスの後ろポケットから『それ』を取り出す。  俺が持っているのと『お揃い』の長方形のカード。今朝、家に忘れかけて焦り、電車の中で落として焦り、そして今は鞄の中に眠っているカード。  ICカードなんて先輩には不必要なはずなのに、ご丁寧にパスケースに入っているそれを先輩が揺らす。  瞠目している俺の目の前で。  嫌味なのか、黒猫のパスケースに入ったカードが。  ゆらり、ゆらり、ゆらりと揺れる。 「実は電車に乗るのって初めてだから、色々教えてね。ミィちゃん」 「は、初めて……ですよね。そうですよね……そうなんですね」 「うん。昨日は緊張しすぎて9時間しか眠れなかったよ。おかげで昼から登校して、ミィちゃんに朝の挨拶行けなかった。ごめんね」 「それ結構寝てると思うんですけど。いや、なんでもないです」 「ああ、せっかくだから今日は、俺がミィちゃんを先輩って呼ぼうかな?ほら、電車の先輩って意味で」 「……もういいです。好きにしてください」  かくして俺は、蝶々を従えて電車に乗る羽目になった。いつの間にか気づけば姿を消していた由比を恨んでも遅くて、嬉々としてついてくる先輩とのこれからを思うと、胃が痛い。由比じゃないけど、胃薬をくれって叫びたくなるぐらいに痛い。  校門へと向かって行く俺たちの背後には、口を開けて見守る教師の群れがある。平凡代表の俺と、平凡とは程遠い先輩が並んで歩くのは、さぞかし不思議だろう。ましてや尋音先輩が機嫌よくパスケースを振り回しているのだから。  いいからお前らは自分の仕事しろよと言いそうになって、俺はそれを堪える。  先輩と学校の外に出てわかったことは、ます1つ目が尋音先輩は本当に何も知らない……ということ。そう言えば語弊はあるけれど、驚くぐらい知らないことが多すぎる。  例えばコンビニの存在は知っていても、それが24時間営業だってことを知らなかった。今時はコンビニでもお金がおろせるんですよと言えば、中に銀行が併設されているのかと聞き返されたり、駅前にあるカラオケが何をする所か知らなかったり。  その隣のゲームセンターだって、尋音先輩にとっては初めて見るものだった。俺が由比とよく行くファミレスも先輩は知らない。本当にこの人は、世間の当たり前を何も知らない。  尋音先輩は今までの16年間をどうやって過ごしてきたのか、心から不思議で仕方ない。  あれは何だ、これは何だと聞かれては答える。いつもなら10分もかからず駅に着くのに、今日は全く前に進まない。尋音先輩がいちいち寄り道してしまうのと、隠しきれない王家のオーラに注目が集まるからだ。  それを先輩に言うと「家系図をずっと遡れば王家に辿りつく」と教えられて、愛知家はマジで半端ない思った。  先輩と一緒に学校を出て早々に、俺はツッコミを入れることを諦めた。そんなことをしたら、永遠に家に帰れない。

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