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蝶々と俺と、先輩とねこ

「すごいね。人がたくさんいる」  初めて電車に乗った先輩の第一声はそれだった。確かに車内はすでに座席が埋まっていて、ゆとりがある方ではない。この時間にしては多いなと思っていたら、なるほど、どうやら小学生の遠足か何かに巻き込まれてしまったみたいだ。  次々と乗って来る人。気温が上がってきた時期にこれは心地悪くて、思わず眉間に皺が寄る。誰が悪いわけでもないから耐えよう、そう決めて息を吐くと身体が揺れた。 「おいで」  それは、初めて先輩と会った時に聞こえたのと同じ声。初めて会った時と同じ台詞で、初めて会った時と同じように白い蝶々が俺を誘う。  応える前に腕を捉えられたと思ったら、誘い込まれたのは比較的余裕のある角だった。俺の身体の左側は壁で、それに凭れると楽になった。  そうして気分的にゆとりができて真っ先に見えたのは、目の前にある見慣れた制服だ。  学校指定のシャツはボタンが上から2つ開いていて、緩く締めたネクタイが揺れる。そこから視線を上に向かわせると白い喉。俯き加減の顎は少し鋭くて、頬にかかる髪は毛先にかけて薄っすら白い。隙間から覗く耳には、小さなピアス。電車が揺れる度にキラキラと輝く。  前に立っているのが尋音先輩だと気づくのと同じタイミングで、先輩の唇が震えた。 「大丈夫?」 「へ?あ、え?」 「人、いきなり増えたから。誰かに足とか、踏まれてないかなって」  押し寄せる人並みにから助けてくれた。  初めて乗った電車で、自分を盾にして庇ってくれた。  誰が。尋音先輩が。誰を。俺を。 「すみません、ご迷惑おかけして」 「迷惑?」 「散々な電車デビューになってしまって誠に申し訳ない。なんとお詫びしたらいいのか……」 「ミィちゃんが何かしたわけじゃないのに、お詫びしてくれるんだ?」  くつくつと漏れる笑い声に合わせて、間近に見える尋音先輩の喉仏が上下する。浮世離れしまくった先輩にも俺と同じように喉仏があるんだなぁ、ってなんとなく考えた。 「でもすごいね。同じ時間の同じ電車に、たくさんの人が偶然集まるなんて」 「それが電車って言うか。でも、普段はここまで混んでないんですよ」  込み上げてくるのは先輩に対する申し訳なさと、自分の不甲斐なさだ。俺が先輩を守るべきなのに、自分の方が楽な場所にいるなんてあり得ない。  情けないと顔いっぱいに書いてしまっていたのだろう、尋音先輩が俺の顔を覗きこんでくる。 「電車には酔わない?」 「……へ?」 「ほら、車は苦手だって言っていたから。人混みも嫌なんじゃないかって」  この状況で考えるのがそれだなんて、先輩の頭の中は相変わらず迷宮だ。自分が苦しいとか辛いとか、この状況が鬱陶しいじゃなくて俺の心配してくれるんだから。   「大丈夫です。慣れてますから」 「それは頼もしい。ところで、電車ってどうやって降りるの?運転手が見当たらないから、どう目的の場所を告げたらいいのかわからない」  自分で勝手に降りるんですよ、と教えてあげると驚いたように尋音先輩が瞬きをした。  そうこうしている内に、俺の最寄り駅を告げるアナウンスが聞こえ、人並みを掻き分けて出口まで向かう。  俺たちが通ると……違う。先輩が通ると、みんなが見る。浮世離れした蝶々の王子様に見惚れて、その隣にいるのが平凡な俺だと知って首を傾げるんだ。でも尋音先輩は自分が見られていることに気づかず笑っていて、俺はそんな尋音先輩を見ているのが苦しかった。  世の中に、電車の乗り方を知らない人は他にもいるだろう。注目を集める人だって何人もいて、満員電車で困っている人を助けた人だって数え切れないほどいる。それなのに、尋音先輩を見ていると胸が痛む。そしてやっぱり苦しくなる。  見慣れた家。普通の家。きっと先輩のそれよりも遙かに小さな我が家は、父さんが頑張って立てた柳家の城だ。その前に立つのは電車で学校に通うのが普通な俺と、初めて電車に乗って、今からタクシーで自分の家に帰る先輩。  不釣り合いな2人が向かい合う。 「また明日ね、ミィちゃん」 「送ってもらってすみません」  尋音先輩と一緒にいると、すぐに謝ってしまうのが癖になってきた。また謝罪の言葉を口にした俺に、先輩が緩く首を振る。 「ありがとうの方が、ミィちゃんには似合うよ」  どこまでも優しくて、どこまでも掴めなくて、俺とは考え方も価値観も違い過ぎる愛知尋音先輩。たった1ヶ月で俺は、先輩をどこまで知ることができるんだろう。  そんなことを考えながら寝落ちた夢の中で見たのは、ひらひらと舞う蝶々と黒い猫の夢だった。必死に蝶を捕まえようとした猫が、地面に叩きつけられる最低な夢だった。

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