47 / 123

今日も麗し王子様

 いい天気ですね……は違う。1日の始まりならまだしも、別れの時間に言うべき言葉ではない。それなら、何を言えばいいのだろう。駄目だ、出てこない。 「あの、えーっと……ですね」  掴んだ腕を振りほどかれないことを良しとして、たっぷり時間をかけて考えた台詞。あれも駄目だ、これも駄目だと厳選して出したそれは、逡巡した時間が無駄な一言だった。 「今日は一緒に帰らないんですか?」  口に出して数秒。2度3度と瞬きをした尋音先輩がふっと笑う。 「そうしたいんだけど、これから約束があるから」  用事じゃなくて約束。それは先輩1人のものではなく、誰かと交わしたものだ。  誰かって、誰だろうか。それを聞こうとして扉の向こうに見えたのは『あの人』だった。  期間限定で先輩を手に入れた、名前も覚えてもらえない『恋人』というやつだった。すっかり存在を忘れていた『あの人』が俺と先輩を見つめていた。 「……そっか。先輩は、そういう人でしたもんね」  どうして俺は、先輩が当然のように自分を選ぶと思ったんだろう。先に向こうと約束していたなら、俺が断られて当然なのに。何でも受け入れる先輩が、あの人を拒むわけがないのに。  胸に上がってきていたものが一気に下降する。今日1日の自分を自嘲しても、それを表に出すことはできない。尋音先輩を相手に心配して、尋音先輩のすることに動揺した俺が悪い。 「じゃあ先輩、また月曜日に。ノート、わざわざありがとうございました」  受け取ったノートを胸に抱え、顔を背ける俺の頭に先輩の手が乗る。緩く撫でるその所作が謝っているように思えて、何を謝る必要があるのだろうかと考えた。  誘いを断ったこと。それとも、また誰かに流されようとしていること。その両方のようで、両方とも違う気がする。多分、先輩はどちらに対しても悪いと思っていない。 「尋音先輩。その手、やめてください」  頭を振れば先輩の手は簡単に離れる。その程度だ。 「そうだ。ミィちゃんは日曜は何してる?」 「日曜は用事で……1日中、出かけます」  俺の返事は半分が嘘だった。  日曜は由比のオタク活動に付き合う約束がある。朝早くからグッズ販売の列に並んで、その後は交換相手を探す手伝いをしなきゃいけない。でも遅くても昼過ぎには解散するって、今までの経験でわかっているのに嘘をついた。  さっき、俺の誘いを断って他のやつの所に行く先輩への、せめてもの反抗だった。 「そう。それは残念だけど、また月曜日に」 「…………今日も遅くなったら、またお説教されますよ」  余計な一言で返した俺に先輩は笑って頷き、教室を出ていった。隣に『あの人』を従えて、2人で歩いて行った。  今度はそれを引き留めずに済んで、おれはやっと肩から力を抜く。零れた息はため息じゃなく、安堵のそれだと自分に言い聞かせて、尋音先輩に返してもらった教科書とノートを見た。 「え、あ……嘘」  数学の教科書の端から何かが出ている。  何かを挟んでいた覚えはなくて、てっきり由比のいたずらか何かだと思って広げたページに挟まっていたのは、綺麗な字で書かれたメモだった。  俺が自分じゃわからなくて、由比に聞こうと思ってラインを引いていた箇所の解き方が、細かく書かれている。そして端の方に小さく『勝手にノートを破ってごめんね』って一言も。  急いで開いたノートの方には間違った問題へのアドバイスと、教科書よりも詳しくてわかりやすい説明書き。それから尋音先輩が自分で考えたであろう、応用問題。しかも答えまで丁寧についていた。  英語のノートにも同じように添削がしてあって、それは最後の方から筆記体になっていて、英語も苦手な俺じゃ読めない。けれど気分屋な尋音先輩らしいとも思う。 「寝不足で眠たいって言ってたくせに」  一般的には十分な睡眠時間でも、先輩は確かに寝不足だって言った。それなのにわざわざ持ってきてくれた教科書とノートには、わざわざ書き込みがしてあって、わざわざオリジナルの問題まで作ってくれたとなると……。 「ますます先輩がわからない」  誰かを特別扱いする人じゃないって、わかっているのに期待してしまう。引き留めなかったことを後悔しても遅く、先輩はもうここにいない。  今の先輩は、別の人のものになってしまった。

ともだちにシェアしよう!