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第二章 9

蛇は一番近くにいる女官には目もくれず一直線にハイドに向かってくる。 眼前に大きく開かれた口が近づき、ハイドは身を強張らせた。 「っ―――!」 避けられない。 思わず目を閉じそうになったハイドだが、蛇の牙は彼には届かなかった。 彼の目前に伸ばされた細い腕がその牙を受け止めたからだ。 ぱた、と小さな音を立て血が絨毯に落ちハイドは目を見開く。 「ファティマ…?」 うわ言の様に零したハイドの呼びかけに振り向いた彼女の目はぞっとするほど冷たく鋭かった。 ファティマは下穿きの中から細身の短剣を素早く抜き取ると、腕に噛み付いた蛇の首を切り落とした。 ぶしゅっと鮮血を噴き出しながら頭を無くした蛇がのた打ち回り、女官達がつんざくような悲鳴をあげる。 それだけでは止まらない。 「きゃあ!」 彼女は箱を開けた女の髪を掴むと床に押し倒し、その首に蛇の血が滴った短剣を押し当てた。 「ひっ…!」 「どういうつもり」 「あ、ああ…」 震える女官を氷のような目で見降ろすファティマはハイドが常日頃知っている少女の姿ではなかった。 「ま、待て、ファティ…、っ!」 言いかけたハイドの腕を誰かが掴み上げた。 ファティマの異様な雰囲気に呆然として、騒ぎを聞きつけてきたのであろう宦官奴隷達に気が付かなかったのだ。 しまったと思うよりも先に、鋭利なものが空を切る音が聞こえた。 「私は彼の身を第三王子様からの勅命で預かっているわ」 宦官奴隷の腕をファティマの投げた短剣が掠め、矢のように壁に突き刺さる。 「次に彼に触れた者から容赦なく殺す」 少女とは思えぬほどの恐ろしい剣幕に周囲には緊張が走った。 彼女は只の侍女ではない。ハイドは確信した。 下穿きの中からもう一本同じ短剣を抜き取ると、女官にちらつかせ問いただす。 「ハイドランジア殿下を殺そうとしたのは貴女達の意思?それともジャーミア嬢?アイシャ妃様?」 「ち、ちが…しらない…私達は…っ」 女官はがたがたと震え、冷や汗を流しながら首を振った。 「ジャーミアから…っ、今日のお話相手をするように頼まれただけで…、へ、蛇なんて…!」 彼女の言葉に他の女官達も懸命に頷く。 確かに箱から蛇が飛び出した瞬間、彼女たちはわけもわからず取り乱し悲鳴をあげて逃げ惑っていた。 あの姿が作られた演技だとは思えない。 「…本当に何も知らないようですね」 ファティマは剣を納め女官の上から立ち上がると、ハイドに歩み寄り膝をついた。 「お部屋に戻りましょうハイド様、これ以上此処に居させるわけにはいきませんわ」 「…あ、ああ、そうだな」 そこまでハイドは言いはっとし気が付いた。 ファティマの腕から血が垂れている。 当たり前だ。彼女は身を挺して自分を守り蛇に噛まれたのだ。 とてもじゃないがこの状況であの蛇が無害なものとは思えない。 「え、わっ!?」 「のけ、俺の侍女は怪我をしている!」 血相を変えたハイドはファティマを抱え上げると宦官奴隷達を押し退け後宮を駆けだした。 「ハ、ハイド様!?」 腕の中で慌てふためくファティマには何も答えずにハイドは後宮の門の前につくと、見張りの宦官奴隷の制止も聞かず荒々しく戸を叩いた。 「ナーヒム!いるか!」 門の向こうに飛び出れば、茶髪の青年が入った時と寸分変わらない場所で立っていた。 ナーヒムは表情自体はさほど動いていないものの少し驚いたのか目を見開いている。 「何事ですか」 「薬師はいるか?この娘が蛇に噛まれた、俺の部屋に連れていくので今すぐ呼んで欲しい」 「御意」 「あ、あのーっ!?」 ハイドが抱えるファティマを見て彼は頷くと機敏に走っていった。 先程までの鋭利な雰囲気はどこへやら、ファティマは年相応の子供らしくあわあわと狼狽えた。 ナーヒムを止めたがるように彼の駆けて行った方向へ手を伸ばす。 「わ、私は本当に平気で…」 「なわけあるか阿呆がッ!」 ハイドは大人しい外面をかなぐり捨てて一括すると、一刻も早く部屋へ戻らなくてはと駆け出した。 こんな姿見られたらムスタファ様に叱られます!という彼女の泣き言は聞こえないふりをした。
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