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第39話 汚泥

「──さい、香彩(かさい)!」  聞き覚えのある声が、どこか遠いところから聞こえた気がして、香彩(かさい)はゆっくり意識を浮上させた。  つもりだった。  途端に汚泥のように迫り来る、眠気に押し流されて、うん……っ、と悩ましげな声を上げながら、寝返りを打つ。  何だか少し肌寒くて、無意識の内に上掛けを手繰り寄せて、頭から被った。  ようやく安心して微睡んでいると、再び香彩(かさい)の名前を呼ぶ声が聞こえる。  先程より強い口調のような気がするが、香彩(かさい)の意識はどんどんと夢の中へと、引き摺り込まれていく。 (……そう言えば何でこんなに)   眠いのだろう。  確かに昨日、この私室へ帰ってきたのは、既に今日になっていた刻時だった。遅い時間だったけれども、この意識の上に覆い被さるような眠さは、今まで感じたことのないものだった。 (──ああ、そういえば)   眠る前に麒澄(きすみ)から貰った、眠り薬を飲んだ。  いつもは竜紅人(りゅこうと)がこの城にいない時に飲んでいたものだが、今回は竜紅人(りゅこうと)がいても眠れそうになかった。  意趣返しのつもりで、竜紅人(りゅこうと)に痕を残した。  それでもやはり彼の想い人が、どんな風に彼にそれを落としたのか、竜紅人(りゅこうと)はどんな風にそれを受け入れたのか、考えたくもないのに、頭の中に浮かんでは消えるのだ。  つきりと痛む胸を無視して、卓子(つくえ)の引き出しを開けたところまでは覚えている。 (……ああ、そうだ。……なかったんだ)  引き出しに染み付いてしまったのか、ふわりと香る神桜(しんおう)の香。  この中に入っていた唯一の贈り物は、あのまま竜紅人(りゅこうと)が持って行ってしまった。  こんなことなら。  燃やすのではなかった。  嫉妬に駆られて、燃やすのではなかった。  燃やさずにいれば、ずっと手元に残ったというのに。  もう捨てられてしまっただろうか。  彼からすれば、贈ったものが燃やされたのだ。  悲しくも腹立だしい品物を、手元に残すはずがない。  後悔をして、堪えきれなかった涙を流しながら、眠り薬と滋養の薬を飲んだ。  身体に酒も入り、精神的にも不安定な状態で、強めに調合された麒澄(きすみ)の眠り薬は、頭の中を汚泥がどろりと、流れて行くかのような、眠りとなった。  その余韻が今も続いている。  とにかく眠かった。 「……いい加減に起きないか!」  上掛けを剥ぎ取られて、香彩(かさい)は恨みがましい気持ちで、目を薄っすらと開けた。  視界に入る朝の光と、金色の髪がやけに眩しくて、片手で目を覆って顔を背ける。  ここ何日も、もうひとつの政務室で寝泊まりをしていて、この私室にはほとんど戻って来ることのなかった父親が、そこにいた。 「紫雨(むらさめ)……眩しい……上掛け返して」 「……ほぉう?」  何やら含みを持たせた低い声が、上から降ってくる。 「いい身分じゃないか、香彩(かさい)。今、何刻だと思ってるんだ。……痕を付けるような相手と、昨夜は何をしていたのか。是非とも聞かせて貰いたいものだ」  その言葉に勢い良く香彩(かさい)が起き上がった。  右耳を手で隠しながら、紫雨(むらさめ)を見上げるその顔は羞恥を感じて、紅く染まる。  と、同時に。 「──っ!」  起き上がった反動からか、眩暈に襲われた香彩(かさい)は、寝台の横に立っている紫雨(むらさめ)にもたれ掛かった。

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