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『神さまへの捧げもの』
子どもは途方に暮れて、泣きべそをかきながら山道を歩いていた。
この山は、神さまの山なのだという。
元々はべつの場所に住んでいた神さまが、そこを棄てて此処へと移り住んだのだと、爺さまの爺さまが言っていたらしい。
神さまに棄てられた土地は、大地震に襲われ、水が枯渇し、不作に見舞われて、ひとの住めぬ荒れ地に成り果てたそうだ。
神さまは鏡だよ、と少し厳しい声で爺さまは教えてくれた。
粗末に扱えば粗末に扱われる。まごころを持ってお祈りをすれば、神さまもきっと同じだけの気持ちを返してくれるものだよ、と。
だから子どもは山に住むという神さまに、毎日祈りを捧げた。どうか母さまの病気を治してください、と。
けれどいよいよ母親のいのちが危ない、という段で、少年は我慢できずに山へと立ち入った。
神さま、お願いです。
神さま、お願いです。
口の中でそう繰り返しながら、険しい山道を登ってゆく。その途中で、足をくじいて歩けなくなってしまった。
来るときは頭上にあった太陽が、もうかなり傾いている。
このままここで、野生の獣に食われてしまうのだろうか。
心細さに泣いていると、不意に誰かの声が聞こえてきた。
「ここは熊が出るから危ないぞ」
きょろきょろと周囲を見るが誰も居ない。
少年は胸の辺りの服をぎゅっと握り締めた。
「か、神さまですかっ?」
震える声で問いかけた。
「神さまですかっ?」
繰り返した子どもへと、しばらくするとひそやかな笑い声が返ってきた。
「随分と懐かしい呼び方だ」
やさしい声だった。
ざぁっと風が吹いた。と思ったら、少年の前に恐ろしげな風体の生き物が立っていた。
獅子の頭に、ウロコの張り付いた体。尻尾は蛇で、背には蝙蝠の翼。
少年はポカンとその姿を見つめた。
神さまですか、とみたび少年は尋ねた。
化け物が牙の生えた口元で、チラと笑った。
「俺が恐ろしくはないのか」
問い返されて、子どもは口ごもった。
「怖いです」
涙の溜まった、大きな瞳に化け物を映して。
少年はそれでも、震える声で答えた。
「怖いけれど……とても、きれいだから。やっぱり神さまだと思います」
赤みを増した西日が、枝の隙間から化け物の体を照らしている。風で木々が揺れる度に、ひかりも揺れて。
化け物のウロコが、キラリキラリと光って、うつくしかった。
「うつくしい、か」
独白のようにポツリと化け物が呟く。はい、と少年は頷いた。
化け物はしばらく、なにか……思考に耽るかのように立ち尽くして少年を見ていた。
その目が、さびしさを溶かし込んだ色で、揺らめいて。
それを見る少年までもが、さびしくなった。
それともこれは、母親を喪おうとしている自分のさびしさなのだろうか。
神さまは鏡だよ。爺さまの声が耳によみがえる。
ならば少年が笑えば、神さまはさびしくなくなるだろうか。少年は化け物の元へと這い寄ろうとして……足首の痛みに呻いた。
化け物がハッとしたように肩を揺らして。
ゆっくりと、こちらへ近寄ってきた。
ウロコの腕が、伸びてきて。
ひょい、と少年を抱き上げてくれる。
キラキラ。キラキラ。
うつくしくひかりを弾くウロコの腕。少年はそれをさらりとてのひらで撫でた。
化け物が驚いたように目を丸くする。
「気持ち悪くはないのか」
「いいえ。とてもきれいです」
化け物の手には、鋭い爪が生えていたけれど……それは少年を傷つける意図は少しも孕まずに、ただやさしいだけの動作で、抱っこしてくれたから。
子どもはまったく怖くなかったし、気持ち悪くすらもなかった。
ただ、化け物の腕が冷えていて。
寒くはないだろうかと、心配になった。
夜の山は冷えるのに、神さまはここにひとりで住んでいるのだろうか?
「寒いですか?」
と、少年は尋ねた。化け物がゆるく首を振ると、
「じゃあ、さびしいですか?」
と言葉を変えてまた尋ねた。
「僕はさびしいです。母さまが死にそうだから、さびしいです。神さまにたすけてほしくて、神さまを探していました。だけど、神さまのほうがさびしそうです。だから僕は、もっとさびしくなりました」
少年の目から涙がこぼれた。
それを見た化け物が、苦いような顔でほろりと笑った。
「変わった子どもだな、おまえは。名はなんという?」
少年を腕に抱いたまま、化け物が歩き出した。
少年は獅子のたてがみのある首筋へと手を回して、神さまにしがみついた。
落ちる心配をしたのではない。
自らの体温で、神さまをあたためることはできないだろうかと、考えたのだった。
そうして、神さまに抱きついたままで、少年は神さまへと名前を告げた。
少年の名を聞いた化け物が、またほろりと笑う。
その目に、さびしさの色は、もうなくて。
やさしくやわらかく、化け物が瞳を細めた。
「いのちは巡るものだ。泣かなくていい。おまえの母親のいのちもまた、未来へと巡ってゆくのだから」
ゆったりとした声音が、少年の耳に溶けた。
泣くんじゃないよ、トーカ、と。
やさしい神さまが、囁いた。
終幕
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