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第6話

「うわー、なにこれ。目の色が変わっている……なんかオオカミの目みたいだな」  この夢の中と思われる世界に来て初めて見た鏡を見て蓮が驚いたのは、今までなら次の日の朝にはふつうの成人男性程度には伸びていた髭がまったく伸びなくなったことと、瞳の色はザ・日本人という感じだったこげ茶色から自分でも驚くくらい綺麗なヘーゼル色に変わったこと。  住人たちの言葉はこの世界にきてその日のうちにウルと関係を持ったせいなのか、ヒアリングだけばっちりになっていたが書かれた文字はまったくもって理解不能である。容姿は残念ながら絶世の美少年に変身! とまでは都合よくはできておらず、いつもどおりの蓮自身の顔だったが瞳の色が違うとちょっとだけ別人のように見える。  折角見た目も変わったことだし、何かに目覚めるかもしれない、という変な予感がした蓮は朝からエイデス家の屋敷の中を探検していた。広い割に使用人は少なく、ウルの家族という家族はここには住んでいないらしい。マリナに確認はしたが、蓮が入ってはいけない部屋というものはないそうで、早速ウルが使っている書斎にも入ってみたが真面目そうな本ばかりですぐに出てきた。 「意外とあいつ、真面目なのかなあ」  パートナー決めを神が見定めるというお祭りの場で、事故同然で花を受け取っただけなのに、ウルは本当に蓮を自分の伴侶にするつもりらしくお互いに自己紹介をして蓮が動けるようになるとすぐに屋敷の使用人たちに蓮のことを己の伴侶だと紹介していった。  その時の使用人たちの驚きようといったら、みんな獣亜人ばかりだからか耳やら尻尾やらがやたらと反応していて正直可愛かった。  庭師をしている狐の獣亜人は特に尻尾が大きいのもあって、思わず触りたくなってしまったが獣亜人の耳だの尻尾だのに可愛いからって無差別に触るのは立派なセクハラになるのではと思い、自重している蓮である。  (ウルなんて、俺の前では不機嫌そうってことくらいしか分からないもんな)  それが幼馴染の陽一と似ているように思わせたのだ。  夢の中で数日経っても一向に夢から覚める気配はなく、むしろ夢を見ている感覚すらなく、蓮はそろそろ自分が夢から覚めることはないかもしれない、と諦め始めてきていた。ザ・不機嫌男の親友が間もなく結婚という時期で、独身最後の記念にと映画に行く途中だったはずだ。  そこにあろうことか、黒い影……空から降ってきた何かが蓮にぶち当たったところまでは朧気ながら記憶もある。  ここまでファンタジックで、びっくりすることばかりなのに目が覚める気配はないので、もしかしたら現実の自分自身は植物人間状態で、意識はもう戻らないのかもしれない、と考えるとかなりショックだった。  思わずしんみりしてしまったところで良い匂いに気づき、蓮の腹は心を裏切って現金にも「ぐう」と反応してしまう。朝ご飯は美味しく頂いているが、何しろ旦那様であるウルは出勤時間が早く、ほとんど半分寝ている状態で食べたのでお昼時近い今となっては朝食べたものなんてほとんど消化してしまっているに違いない。  これは昼食を作ってくれている匂いだろうか、と匂いを辿っていくと厨房に出た。  そういえば幼馴染の美緒は本が大好きで、読んでいた異世界トリップものの漫画を読んだことをふと思い出す――曰く、転生した主人公は料理上手で、得意な料理を武器にその世界に馴染んでいくような展開だった。  いそいそと厨房の中に足を踏み入れようとした途端に、目の前に現れたのは立派な角を持った……牛の獣人だった。 「なんの御用ですか、奥様。お昼の時間はまだですよ」  怒っているように見えるが、口調は丁寧である。蓮が「何か手伝わせてください」と話すと、あっさりと中には入れてくれた。どうやら牛の獣人がリーダーであるようで、鳥や豚らしく獣人や亜人たちがあくせくと働いている。  そういえば、この屋敷に来てから食べた料理には魚しか使われていなかった。この厨房の中に魚の亜人がいないことに、少し怖い想像をしてすぐにそれを打ち消そうと首を横に振ると、鳥の獣亜人が包丁を使っているのが見えて声をかけてみた。自信たっぷりに声をかけてきた蓮に快く包丁を貸してくれた鳥の亜人だったが……。 「あれ、思ったように切れないな」  ダン、ダンと決して軽やかではない音が厨房に響く。今朝獲れ立てなのだろう、みずみずしい野菜がどんどんと無残な姿へと変わっていく。それまでにこやかな雰囲気で蓮を見守っていた使用人たちだったが、野菜たちがボロボロになっていき、包丁が刃こぼれするのではないかという勢いでまな板にたたきつけられていくうちにハラハラとし始めた――ただ一人、静かな怒りを孕み始めた牛の獣人を除いては。 「奥様、念のため確認させて頂きたいのですが……」  優しそうな顔をした豚の獣亜人が恐る恐るといった風に蓮に声をかけたその時。  蓮が切ったのは己の指の皮だった。 *** 「奥様、厨房や屋敷のことに興味を持っていただくのは大変結構なことです。使用人たちにとっても名誉なことですわ。けれど、奥様ご自身になにかあるのはいけません。あの者たちが明日には料理に供されてはかわいそうとお感じにはなりませんか?」  指くらい放っておいても大丈夫と言い張ったものの、厨房からの助けを呼ぶ声に駆け付けたマリナによって部屋へと強制連行された蓮は、心持ちしょんぼりとしながら傷の手当てを受けていた。  夢の世界だろうが異世界だろうが、蓮の料理スキルがいきなり上がるようなことはなかったし、それどころかマリナの話を聞き、蓮が怪我したことで厨房にいる彼らが責任を取らされて捌かれてしまったらどうしようと身体が震えてきた。 「どうしよう。俺、今からウルに事情を話してくるよ」 「私は奥様のそういうところが好きですわ。とりあえず、獣人たちを食べようなんて野蛮な罰はありませんし、冗談ですからご安心を、奥様」  蓮がほっとしたのも束の間、昼餉が運ばれてきた。せめて配膳くらいは手伝いたくて扉に駆け寄ろうとしたとき。 「……お前は、私に恨みでもあるのか」  自分が思うよりも先に扉が開き、驚いた弾みで扉から現れた人物へ突進した蓮は、相手が持ってきたトレイをぶちまけてしまった。その相手――ウルの冷たい声音に、怒られる予兆がしてへらっといつもの笑い顔になってしまう。出直す、と小さく言って部屋から出て行ってしまうのをどうしようもなく見送ってから、怒られずに済んだことにはほっとしながらも散らばってしまったものを見て余計に落ち込む。 「あら、旦那様が自分でお茶を持ってくるなんて。きっと、奥様とお話がしたかったのかもしれませんね」     手際よく床を片づけ始めながらそう声をかけてきたマリナの言葉が、いつになく蓮の心に突き刺さったのだった。

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