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第28話

「確かこの辺だとは思うけど……」  神子に与えられた部屋から見下ろす限りでは、ただただ綺麗な花園だなくらいにしか思わなかったのだが、こうやって分け入ってみるとジャングルのように背丈の高い草花ばかり。格好つけて出てきたまでは良かったが、簡単に見つかりそうにもなくて蓮はため息を一つついた。どのあたりに落ちたのかは花の色を覚えていたので、こうやってその付近までは来たわけだが、冷たい雨は強さを増す一方で地面もそれにつられてどんどんとぬかるんでいく。何度か足をとられて転んだので、せっかくウルに揃えてもらった城に出仕する用の服が泥まみれになってしまった。  「本気で捨てたいわけじゃないんだったらさ、捨てちゃダメだよな」  修には不安定なところがある。  祭りの時に蓮を連れ出したのもかなり切羽詰まっていたのだろうし、何度か落ち込んだり激昂したりするのを繰り返したりしているが、厨房で料理を作った時のように穏やかに笑ったりするのが本当の修なのだとしたら――突然異世界に飛ばされたというのが本当なら多大なストレスもあったのだろうし、今も錯乱してぶん投げてしまったのだろうと推測はできた。  現に、嘲笑うように笑いながら涙を流していたのだから、我に返った時に後悔するに違いないのだ。 (そういえば、なんで修さんは異世界に飛ばされたんだろう)  蓮にはなんとなく自分が飛ばされた原因は分かっている。何かの事故に遭ったということが。  ちゃんと身なりを整えて、ちゃんとした食事をとるようになってからは格段に修の男前度が上がって侍従たちが喜んでいたし、やる気になればなんでも出来そうな上に語学習得力も高くてーーエリートかなにかだったのでは、と密かに思っているくらいだ。 「なにか動物でも迷い込んだのかと思ったら、この間の庶民か」  あからさまに馬鹿にしたような口調で声をかけられ、こんな時にまで間の悪さを発揮しなくても良いのに、と蓮は自分のプチ不幸体質を呪いたくなった。声の主人は思った通り、先日蓮の頭を踏んづけるというなかなか古典的なパワーハラスメントをしてきた王族、アルクタだ。  先日、ウルの部下とそうしたように、渋々片膝をついて頭を垂れると、目の前までアルクタが近寄る気配がした。 「泥まみれがお似合いなことだ。それより、その辺りは神子殿の視界に入るあたりである。汚い格好でいつまでもうろつかれては迷惑千万」  ーーその神子様のせいで泥塗れになっているとはさすがに言えず、「すぃっやせーん」と小声で言い返した。それはうまい具合に変換されたらしく、アルクタは鼻で笑うとさっさと立ち去っていく。先頭を歩くアルクタの後ろから傘を差し持っている彼の侍従たちは、申し訳なさそうに蓮に頭を下げていったので、蓮はアルクタにだけタンスの角に小指をぶつける呪いをそっとかけておいた。  冷たい雨は容赦なく蓮の体温を奪っていったが、なかなか見つかる気配もなく夕方が近づいてきた。この世界には残念ながら電気という文明の利器はないようで、もっぱら光源は炎に頼ることになるのだがランタンを持って来ようか、いっそ今日は諦めるかぼんやりとしながら蓮は悩んだ。 「なんかこう、ここほれワンワン的なのがあればなあ……」  さすがに地面にまでは埋まっていないだろうが、暗くになり始めて自分の視力も使い物にならないとすれば、さすがに厳しい。不意にジンジャーと勝手に名付けたオオカミのことが頭によぎったが、野の獣である彼が都合よく出てくるとは思えず蓮が一人で笑いかけたその時。  茂みをかき分けて何かが近づいてきて、またアルクタが笑いにでも来たのかと身構えたが、現れたのは蓮同様に泥まみれになった相棒、ジンジャーだった。 「ジンジャー! も、もしかしてお前……」  長く立派な尾をフリフリしながら足取り軽く近づいて来たオオカミはポトリと蓮の足元に何かを置く。雨足は遠ざかり、今日最後の力を振り絞らんばかりに広がった夕焼けの下、鈍く光ったそれを手に取り、この世界には存在しないはずの腕時計であることを確認すると蓮は力尽きながらへなへなと座り込んだ。  泥だらけの獣が褒めて欲しそうに、でも汚れているからか遠慮がちに顔を近づけて来たので思いっきり首もとを撫でまわしているうちに急激に疲れなのか身体が重苦しくなって蓮はジンジャーを抱え込むように意識を失った。 薄れていく意識の中で聞こえたのは、まるで急を告げるような迫力のあるオオカミの遠吠え。 「レンはどこだ? 風呂にでも行ったのか」  以前、この世界の本は文字ばかりで分からないと嘆いていた伴侶のために絵が多く描かれている本を取り寄せての帰宅後、早速蓮に渡そうと思ったウルを出迎えたのはてっきり蓮はウルと一緒に帰ってくるとばかり思っていた屋敷の使用人たちだった。 「レン様は神子様の様子を伺いにお城に……帰りに旦那様のところに寄ると仰っていたので、一緒に帰ってくるとばかり」  蓮も子どもではないので、城の中で迷ってしまったと以前笑ってはいたが城の中も無人ではないので何かがあれば誰かに頼ってでも帰ってくるはずだ。 「神子の様子を? どうして奴の侍従どもはそれを私に言わない」  答えはすでにウルの中で出てはいたが、それを口にするのも腹立たしくてすぐにまた外へと出る。従者の一人が馬を厩舎に連れて行こうとしていたのを引き留めると、馬に飛び乗った。  ――そして。  いつぞやの時と同じように、オオカミの遠吠えが城の方から聞こえた。明らかにウルの助けを乞うその声は、蓮が勝手にジンジャーと名付けたあのやや肥満体型のオオカミだ。馬は怯えたようにたてがみを揺らしたが、首を叩いて励ますと城に向かって駆ける。  やがて、ウルが城の中庭で見つけたのはオオカミにもたれかかるようにして倒れている己の伴侶。 「レン!!」  いつになく大きな声を出してウルが近づくと、大きな獣はほっとしたような気配を見せてそっとした動きでウルに蓮を託してきた。恐らく、今までずっと付き添っていたのだろう。獣の毛並みもすっかりと濡れて泥まみれになっていた。 「……ウル? あの……もらったふく、が……汚れてしまって……ごめんなさい」  城に出仕するからとちゃんと生地から選んで作った服も冷たく濡れて酷く汚れていた。 「気にしなくていい。そんなものは金があればまた作り直せる。……屋敷に帰ろう」  ほっとしたように蓮が目を閉じる。その顔は青いのを通り越して真っ白で、ウルは今までになく強く感じた不安に、体中になにか突き刺さるような感触を覚えたのだった。

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