50 / 96

番外編:前の日。

「たーかーしーたーれーんくん、朝だぞ!」  大きな窓を覆う遮光カーテンが一気に開かれて、職場には明るい陽光が満ちた。  久しぶりに自宅に帰って寝たという同僚がすっきりとした顔で蓮をのぞき込んでくる。こざっぱりとした同僚をうらやましく思いながら自分の机の下から這い出すと、蓮は大きく欠伸をした。  プログラムの動作テストは終盤に差し掛かっていて、日中は営業として働いている蓮も帰社してからは開発部の手伝いとしてこうやって寝起きする日々が続いている。こじんまりとした小さなフロアに所狭しと並べられた机の下に敷かれた布団から、他の同僚たちも朝日の眩しさに文句を言いながらゾンビのように起き上がってくる。 「悪いな、日中も外回りとかしているのに。でも高下は仕事速いから正直助かるよ」 「いやー、今度の新作が売れたら先輩が素敵なディナーに連れて行ってくれるって夢見てますから」  色んな意味で夢だな、それは。と蓮より1年ほど先輩の同僚が苦笑する。  バブル期に乗じて出した新作がたまたま売れて、そのヒット作を何度もリメイクしながら新作を作っている小さなゲーム会社。最近は大手の業務委託を受けることも多いが、欲張りな営業部長のせいで仕事は詰め込まれ、特に開発部の同僚たちはここ最近会社での寝泊まりを繰り返している。 「俺、高下が辞めたらこの会社を訴えるつもりなんだ」 「完全にブラックですもんねえ。タイムカードだけは毎日定時帰りで!」  急に顔を暗くした同僚に、蓮は殊更明るく振舞って見せる……が、自分も苛立ったり精神が不安定だな、と思うことが増えてきたのは感じていた。誰しもが、仕事に追われて人格が変わってしまったかのように苛々としている。  忙しいのに加えて、欲張りな営業部長は社長の目を盗んでは日中営業と称して遊びに行き、パチンコに負けた日なんかは早めに戻ってきて部下たちをいびり倒した。パワハラだと訴えようにも、社内には訴える先などない。営業部長が人事も兼ねているのだから。 「高下はよく続けていられるよな。お前、本当は作画で採用されたのに結局営業やらされているじゃないか」 「作画は、こそっと秋山さんに手伝わせてもらっているんで満足なんですよ。それに、先輩たちが頑張って生み出した作品を、愛を持って売り込むって、作品に触れたバイヤーから感想もらうって、営業にしかできないですからね」  なんとか疲労が表情に出ないように気を付けながら蓮が返すと、同僚は苦笑だけを返す。 「でも、そうだなあ。もし円満退職ができたら……絵本を、描いてみたいなと思います。実は描きかけのもあるんですよ、部屋に置いてあるけれど」 「……円満退職は難しいかもしれないけどな。あの営業部長とまともに会話できるの、社長と高下しかもういないじゃないか。パワハラしているくせに、あいつが高下辞めるの許さなそうじゃないか? でも、高下が描いた本なら読んでみたいな。お前、やっさしーほのぼの系の話とか描いてそうだから癒されそう。あ、サンプルちょうだいね」  サンプルですか、と聞き返した蓮に同僚は「冗談だ、ちゃんと買うよ」と一頻り笑う。それから「そういえば」と真剣な表情に切り替えた。 「ニュース見たか? 証券会社で莫大な損失が出たってさ。あのデブ部長、ちゃっかり会社の金流用して株とかやってそうだから大丈夫かね。大損した連中がどんどん飛び降りているとかなんとか……」 「ええー、ニュースなんてしばらく見ていなかったなあ。まあ、部長が失踪したら探さないでおきましょうね」  世の中、そんなことになっているのか、と目を瞬かせた蓮に同僚は心配げな表情をした。 「高下は土日固定休のくせに、締めが近いからって先週も先々週もうちの部署の手伝いに来ていただろう? 休みはちゃんと休めよ。お前、入社した時よりだいぶ痩せたよ?」 「そうですねー、部屋の中に得体のしれないカビとか増えていないか心配だし……そういえば幼馴染から連絡も来ていたな。今度、結婚するんですけどね。その相談に乗ってくれって」  高下が結婚の相談になんか乗れるのか? とそれはそれで心配げな表情になった同僚に蓮は笑い返すとたまには一日しっかりと休みを取るのもいいか、と思い直した。なかなか結婚式の話が進まない幼馴染を冷やかすのは面白そうだ。  そうして、不機嫌顔をした幼馴染と街に繰り出したその日。  この世界での蓮の運命は終わり、別な世界で新しく始まったのだった。

ともだちにシェアしよう!