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二十二世紀に目覚める君へ
君がいなくなるなんて誰が予想しただろう。
突然に、必然に、そしてはっきりと明確に。君は僕の前からいなくなってしまった。
突然に。それは君がもたらした科学の力で。
必然に。君は初めからそのつもりで。
明確に。君は僕の前から姿を消した。
時は二十一世紀前半。優秀な科学者である君は念願のコールドスリープ技術を完成させた。
子供の頃から目標に掲げていた新技術のきっかけは何とかという古いゲーム。コールドスリープで長い眠りについた子供たちが滅びゆく惑星から脱出し、新たな星に素晴らしい文明を築き上げるという筋書きのそれに君はいたく感銘を受け、長い間その夢を追い求め続けた。僕と出会うずっと前から。僕と出会ったその時も。初めてキスした晩も、汗だくになったセックスの後も。君はずっとずっと人間を凍らせることばかり考えていた。そしてとうとうある晩君は僕を呼び出し、今までにないくらいかわいい笑顔で僕に微笑んで見せた。
「とうとうできたんだ」
何が?なんて訊かなくても分かった。その証拠に、いつもなら聞こえないフリをされるような僕の「男の子? 女の子?」なんてつまらない冗談にも君は眼鏡の奥の瞳を細めたままだったから。残念ながら男性の妊娠はまだ実現していないし、その頃の二、三ヶ月僕らはセックスはおろかデートすらしていなかったのだから、しばらく見ないうちにいくらか頬のこけた君のお腹に新しい命が宿ろうはずもない。欲望に忠実な僕はウキウキしている君を眺めながらその実、久々にお目にかかった体の抱き心地を想像して胸を高鳴らせていた。研究に没頭して少し痩せたように見えるから、きっと前より柔らかくはないだろうなあ。そんなことばかりが頭を駆け巡る。
君は年代物のひどいオフィスチェアをギシギシ言わせながら立ち上がり、しわくちゃの白衣を翻して僕を隣の部屋へと導いた。ドアを開けた勢いで赤いマーカーで〝立入禁止〟と殴り書きされた白いコピー紙が剥がれ落ちる。ヒラヒラと舞い上がって床に向かって行くそれ。けれども僕は扉の向こうに釘付けになってしまっていて、そんなものに気を配る余裕はなかった。
それは僕が知っているあらゆる物でもぴったりと例えようがない姿をしていた。ちょうど人ひとり入る大きさの白っぽい金属の塊。触手、根っこ、もしくは雄蕊と雌蕊みたいに繋がれたたくさんのパイプの類。それらが何かしらの装置であることを示唆している以外、門外漢の僕には何が何だかさっぱりだった。
「どうだ、すごいだろ」
目を白黒させるばかりの僕に君は得意気に言うと、パイプの間を縫うようにして歩き回りながら装置の説明を始めた。ここはなんとかスイッチだのそっちは何かのセンサーだの、君が心血注いで設計したそれがいかに素晴らしいかを説く言葉が次々君の口を突いて、君がいつになく興奮しているのが僕にもよく分かる。セックスの時より頬が紅潮していて、君が勃起しているんじゃないかと疑ってしまったくらいだ。
「ちゃんと聞いてんのか?」
ついつい股間を凝視していた僕に君が不満を漏らして、僕は慌てて頷く。君はやっぱりすごい。天才だ。誇りに思うよ。最高の男だ。並べ立てられた賛辞に気を良くした君は、うきうきとその〝計画〟について語りだした。
君がコールドスリープを実現させた目的は来るべき地球最後の日に人類が新たなる理想卿へ旅立つ手段である。しかし目下人類にその予定はなく、最も遠い所ではおよそ数十億年後の太陽の死の時までその日は訪れないだろう。そのため、完成したコールドスリープ装置はもっぱら、人々を望まぬ死から救済するために使用される予定であるーーーー。つまり端的に言えば治療法の見つかっていない病や障害を持つ人々の肉体を保存するために使われる、というわけらしい。
恋人の口から語られるハリウッドも顔負けの壮大な計画についていけずにいた僕だが、次の一言で一気に現実へ引き戻されることになる。
「この中に一番初めに入る人間はもう決まってる。俺だ」
「は?」
間抜けな声が自分の口から漏れたものだと、僕は少し遅れて気がついた。
君は病人でもなんでもないじゃないか。それは確かにいささか病的なほどに研究に没頭するし、恋人や三大欲求よりも知的探究心を優先するきらいがあることは否めないけれどーーーー。
懲りずにまたくだらない冗談を飛ばそうと試みた僕に向けられたのは、さっきみたいな微笑みではなかった。君はこの時ばかりはほんの少し真剣に、と言うより慎重に口を開こうとしていて、君のらしくない素振りに僕の背筋はひっそりと嫌な予感を覚えた。
君の口から告げられたその真実を、僕はどうして受け入れられただろうか。
君は癌だった。
それもとびきり難しく、治療の施しようがないと言われた程度に進行した。
「このままだと俺は半年と持たないだろうから」と、内容の割にあっさりした口調で言う、その肩を思わず両手で掴む。
「君は自分が何を言っているか分かっているのか。癌だなんて、どうして黙ってたんだ。それに後半年? 半年だなんて、そんなの……」
手の中の肩は記憶よりずっと薄かった。
肩を掴んだままくずおれた僕に、釣られてしゃがみ込んだ君が曖昧に微笑んで、ゆっくりと、頭を撫でられる。そんなこと今まで一度もしたことないのに。それにそんな曖昧な、泣いてるのか笑ってるのかも分からない表情は君らしくない。
「俺だって驚いてるよ。ついこの間知ったばかりで、その頃には手遅れだったんだ」
彼が自らが癌に侵されていると知ったのは、ほんの二、三ヶ月前の出来事だった。ちょうど研究に集中するからと言って会えなくなった頃だ。何も知らずにいつもの悪い癖だと呆れていた僕をよそに、君は命を削って研究に打ち込んでいたのだろう。
「ちょうどもうすぐ成果が出せそうだって時に癌が見つかってもうすぐ死ぬと分かった。それで、俺が生きたという証を人類史に刻みたいと思ったんだ。後先考えないとなれば好き勝手研究ができて、それはすごく楽しかったよ。人生で一番楽しかったと思う」
満足気に言う君は、きっと本当に楽しかったのだろう。それで夢が叶ったのだからもう思い残すこともないのかも知れない。けれど、僕は。君に置いていかれる僕は。
「だからこうして、超特急で装置を作ってやったんじゃないか。コールドスリープは俺の夢だけど、お前は俺の未来だよ。……お前がいなけりゃ、装置が出来た後も生きられないことをこんなに惜しく思わなかった」
お前といられないことだけが俺の心残りだよ、と言う君の声は相変わらず他人事のように軽くて、けれど確かに真実の硬さを帯びていた。それがまた嗚咽を呼んで、君の手が僕の頭を撫でた。
君は言葉通り、残された時間を僕のために使ってくれた。家族も友人もいない人だったから、文字通り君には僕しかいなかった。僕は痛み止めを浴びるように使った君の体と何度も何度もセックスをして、その度に君の中に精液をぶちまけた。もし仮に受精したとしてもお腹の子が育ちきることはないのだと思うと、馬鹿げた妄想にも関わらず不思議と胸が締め付けられた。
君と出会ってから今までのいつよりも君は僕のそばにいるのに、腕の中の君は今までのいつよりもどこかへ行ってしまいそうで僕は、何度も君を抱き締めた。こんなに痩せ細った体でさえも、君であれば僕は欲情する。君がそのぼろぼろの体で甘い声で鳴くのも、きっと僕だからだと信じたい。
セックスをしていない時は大抵、未来について話した。君が第一号となるコールドスリープが成功し、多くの命に希望がもたらされる未来。君はその身を侵す癌の治療法が確立される時まで、もしくは最長でおおよそ百年間眠り続けることになる。
「俺が一番最初に眠って、一定の期間問題が発生しなければ装置は増産され、次々と人々は眠りにつくことになる。その後治療法が見つかり次第目覚めることになるが、それがいつになるかは分からない。五年後かも知れないし、十年後かも知れない。もっと先かも知れない。それで百年経っても手の施しようがなければ強制的に目覚めることになる」
そう決めたのだと君は言った。あまりに遠すぎる未来、違いすぎる時代を人は生きるべきではないのだと。
「お前、百年後も生きてるか?」
膝の上でからかうように言った君の、こちらを見上げた額にひとつ口づけを落とす。
「どうだろうね。その頃には僕も、君の装置にお世話になってるかもね」
「そうしたらいつか、未来でお前とまた会えるかも」
そうだったらいいのに、と思う。僕も不治の病に侵されて、君の作ったゆりかごで眠るのだ。そして数年後、もしくは数十年後に再び巡り会う。病を克服した君と。
「でも僕が健康なまま歳を取ったら、君が目覚めた時僕はおじいちゃんかもよ」
そう言うと君は「それでもいいよ」と笑った。
とうとう訪れてしまったその時を、僕は思ったより冷静に受け止めていた。その頃には僕らは「未来でまたいつか会える」と言うのが口癖になっていて、君はおじいちゃんになった僕を見るのを楽しみにしていたようだった。
君が装置に入ってしまう以上、その操作は他の誰かの仕事だった。当然君は自分の夢を引き継ぐ人間を用意していたけれど、自分を眠らせる相手には僕を選んだ。
「パネルのここと、ここを選んで。最後にこのスイッチを押す。簡単だろ?」
もう何度も繰り返し聞いた説明を、君は念押しで繰り返す。僕は頷きながら、白い金属の装置の中に横たわる君を見下ろした。
初めて目の当たりにした時は何にも例えようがないと思った装置だったが、何度も繰り返し見ているうちに少しだけ印象が変化し、蛹のようだと感じるようになっていた。白い繭でくるんだ柔らかな幼虫。羽化はしなくていい。そのままの姿で再び、春を迎えてくれたらそれでいい。
その僕が幼虫に例えた君は、白い繭の中でじっと僕を見つめている。僕がタッチパネルをひとつ操作すると繭の蓋が閉まり。ふたつ操作すると睡眠作用のあるガスが内部を満たす。
「君が大好きだ。誰よりも。未来で会えると信じてる。そうじゃなくても……」
言葉を詰まらせた僕を君は笑って、唇をゆっくりと引き上げた。
「……愛してるよ、いつまでも」
ほら、早くやってくれ、と君が手を振る。
君を愛してる。君を愛してる。何度も呟く僕を君は、ふたつ目のパネルを押すまで微笑んで見つめていた。
ーー最後のボタンを押す。すると白い繭は繋がれたアームの力で持ち上がり、壁の中に収納されて行った。壁面にはいくつもの溝が走り、正方形に分断されている。やがてそのひとつひとつに君と同じく未来を夢見る人々が収まる日が来るのだろう。
数年後、十年後、もしくは数十年後。君の作った未来で、僕は君を待つ。
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