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ⅩⅩⅩⅠ

「副社長」  と、澤良木(さわらぎ)三隅(みすみ)を呼んだ。  車中から三隅はひと言も喋っておらず、車からマンションの部屋まで柚木(ゆのき)を抱き上げて運び、寝室のベッドに横たわらせた体に布団をかぶせると、ベッドの端に腰をかけて、ずっと柚木の寝顔を見ていたのだった。  澤良木の呼びかけに、彼は初めて澤良木の存在に気付いたとでもいうように、疲れ果てた目を澤良木へ向けて、「ああ」と吐息のような声を漏らした。 「……澤良木くん、まだ居たのか……。もう、帰ってもらっても大丈夫だよ」  少しも大丈夫ではない顔色でそう言われ、澤良木はきゅっと唇を引き結んだ。  八代からは、八代が迎えに来るまでここに居るようにと言いつかっている。    澤良木は一旦寝室を出て、勝手にバスルームへ入り、ざっと浴槽を流してから湯はりをした。  湯船の準備をしている間にキッチンへ行き、冷蔵庫の中身を確認した。昨日佳澄が色々と食材を買ってきてくれたので、なかなか充実している。  澤良木はスーツの上を脱ぎ、それをソファの背に掛けると、腕まくりをして食事の用意を始めた。  少しすると、軽快なメロディが流れ、湯はりが終わったことを伝えてくる。  澤良木は一旦手を止めて、寝室へと引き返した。  三隅は先ほどと同じ姿勢で、ぼんやりとした視線を柚木へと向けて、彼の髪を指先で弄んでいた。 「副社長」  澤良木が呼ぶと、緩慢な動作で男が振り向いた。 「お風呂へ入ってきてください」 「なにを……言って、」 「手の傷は沁みると思いますので、ビニールで保護しましょう。とりあえず湯船に浸かって、ひと息ついてください」  言いながら澤良木は、キッチンから持って来たビニール袋を三隅の右手に被せ、手首のところをテープでぐるぐると巻いて固定した。  そして、三隅の腕を引いて、ベッドから立ち上がらせようとする。その澤良木の手を、三隅が少し乱暴な仕草で弾いた。   「俺たちのことは放っておいてくれ」  うんざりとした口調を隠しもせずに、三隅がそう言った。  そうか、と澤良木はそのとき、ひらめくように思った。  、と言った三隅が、柚木と2人だけの世界に閉じこもらないように、八代は澤良木をここに寄越したのだ。柚木がどれだけ傷を負っても、三隅や佳澄が彼の傍に居続けるように。三隅だって、ひとりじゃない。彼らだけで、世界は閉じない。   それを、澤良木は三隅に、思い出させなければいけないのだ。 「入浴は、体だけでなくこころもリラックスさせてくれます。あなたにいま、一番必要なものです」 「うるさいな。早く帰りなさい」 「副社長。服を脱ぐのを手伝います。こちらへどうぞ」  澤良木は強引に三隅の腕を掴んだ。三隅がそれを振りほどこうとしたが、今度は澤良木も手を離さなかった。  ち、と三隅が舌打ちを漏らす。普段の王子様然とした振る舞いからは、考えられないほど険悪な態度だった。  男の怒気に怯みそうになりながらも、澤良木は掴んだ腕を引いて、三隅を立たせた。  三隅がこれみよがしなため息を漏らしたが、構わずにそのままバスルームまで連れて行く。  右手にビニール袋を被せたため動きが不自由になってしまった三隅に変わって、澤良木は彼のシャツのボタンを手早く外した。ついでに左右のそでのボタンも外す。ベルトも難しいだろうかと思い、カチャカチャと音を立てながら男のベルトをゆるめていると、 「澤良木くんさぁ」  と、少し険のとれた三隅の声が降ってきた。 「それはさすがに、八代に怒られない?」  問われて初めて、澤良木は、三隅が半裸になっていることを認識した。見上げた三隅の顔は、苦笑いを浮かべている。  その表情が、平生の彼のものに戻りつつあって、澤良木はホッと肩からちからを抜いた。 「いいえ。私は社長に副社長と柚木のことを頼まれていますので。あとはご自分でできますよね。着替えは適当に出しておきますので、ごゆっくり温まってきてください」  淡々とそう告げた澤良木へと、三隅が小さく肩を竦めた。 「はいはい。女王様の仰せの通りに」 「副社長……」 「澤良木くん。きみは、(ゆず)の隣に居てやって」 「はい。そのつもりです」  澤良木が請け負うと、三隅が「うん」と頷いた。    三隅を脱衣場に残して、澤良木は一旦キッチンへと入る。  三隅が入浴をしている間に、しておきたいことがあった。  大き目のボウルに熱い湯を入れ、タオルを腕にかけて寝室へと向かう。  勝手にクローゼットを開けさせてもらい、柚木のものだろうパジャマを取り出した。  澤良木は眠っている柚木のジャージの上を、できる限りそっと脱がせ、固く絞ったタオルで上半身を清める。  左手の傷には触れなかった。ここはあとで、三隅に救急箱の在り処を聞いてからきちんと処置した方がいい。  パジャマの上を着せてから、澤良木は下半身に手を掛けた。  「柚木、すみません」  小声で謝罪をしてから、ズボンと下着を柚木の足から取り去る。  ぬるぬるとしたオイルと、一ノ瀬の精液で柚木の足の間はべとべとになっていた。  澤良木は手早く、けれど丁寧に、タオルでそこを拭った。  体を横向きにさせ、尻たぶを広げる。中に出された精液を、掻き出せるだけ掻き出した。こんな作業、三隅になど決してさせられない。    柚木の体を綺麗にし終えた澤良木は、元通りきちんと布団をかぶせ、柚木の髪を撫でた。  だいぶ汗をかいていたのだろう。髪は少し湿っており、本当は頭も洗ってあげたかったが、いまは睡眠が優先だった。  澤良木はタオルなどを片付け、三隅の着替えを脱衣場にセットした。  そのときふと、浴室の静けさが気になり、澤良木はすりガラスになったドアをノックする。 「副社長?」  声をかけたが、返答はない。  澤良木は「失礼します」と断ってから、中折のドアを開いた。  三隅は……湯船に浸かって眠っていた。肉体的な疲れに加え、精神的な疲労も強く、体力が限界を迎えたのだろう。  澤良木は慌てて浴室に入り、三隅の肩を叩いた。 「副社長。副社長、起きてください」 「ん…………さわらぎ、くん。柚は?」 「柚木は眠っています。副社長も、ベッドへ行きましょう」  澤良木は三隅の腕を掴んで、自分の首に回させた。 「立ちますよ、いいですか?」  問いかけると、三隅がとろりとした目で曖昧に頷く。  澤良木は渾身のちからで立ち上がった。三隅が気だるげに足を伸ばし、澤良木の介助でなんとか浴槽を跨いで出てくる。  脱衣場で三隅にバスタオルを渡すと、緩慢な動作で三隅が体を拭いていった。  気を抜くと瞼が下りてきてしまい、澤良木はその度に三隅の腕を叩いて覚醒を促した。  なんとかパジャマに身を包んだ三隅の体を支えながら、澤良木は廊下を歩き、寝室の扉を開けた。  柚木の眠るベッドの、隣の空いたスペースへと三隅がどさりと横たわる。  半分閉じた目で、三隅はそれでも柚木の姿を探し、両手で彼の頭を抱き込むと、そこでようやく安堵の息を吐いて、一気に眠りの世界に引き込まれていった。  澤良木はしばらく、混ざり合うほどに密着した2人の寝顔を見つめていた。  苦しいような、切ないような気分になって、自然と涙がこぼれた。  どうか柚木が……三隅と、柚木が……これ以上傷つくことになりませんように、と誰に向けてなのかわからない祈りが、胸の中を占めていた。    ふと寒さを感じて我に返った澤良木は、改めて己の姿に気付く。  先ほど三隅の風呂から上がる介助をしたせいで、シャツがびしょびしょに濡れている。  スーツのスラックスはさほどでもなかったため、下はこのままで良かったが、上は着替えなければ風邪を引いてしまうかもしれない。  澤良木は申し訳ないと思いながらも、クローゼットをざっと見て、長袖のシャツを拝借した。サイズから言っても三隅のものだろう。カーキ色のシャツは澤良木には大きかったが、柚木の服は小さくて、それよりはまだこちらの方がマシだった。  澤良木は自身のワイシャツをハンガーに掛け、リビングの窓枠に引っ掛けて干し、乾くのを待つ間に食事の支度の続きに取り掛かった。  時刻は18時に迫り、通常であれば夕食のメニューになるはずだが、三隅も柚木も疲れているだろうから、重いものは胃に負担がかかるだろう。  あっさりとしたメニューを頭の中で考えながら、澤良木は手を動かしたのだった。  八代は20時半頃に姿を現した。  男は開口一番、 「あいつらは?」  と澤良木に尋ねた。  眠っていますと答えると、彼は鷹揚に頷き、 「ご苦労だったな、(せつ)」  と澤良木を労ってくれた。  澤良木は恐縮しながら首を横に振る。 「私は、特になにも……。社長こそ、お疲れ様でした」  澤良木が頭を下げると、八代のごつごつとした手が、髪をくしゃりと撫でてくれた。    八代は一ノ瀬に付き添って病院まで行ったとのことであった。 「三隅に強かに殴られていたからな。頬骨にヒビと、歯が一本折れていた。あとは、椅子を巻き込んで倒れたせいで、肋骨が2本骨折していたのと、右肩の脱臼だ」  列挙されるとなかなかの怪我で、しかしそれほどの重傷を負ったにも関わらず痛がる様子を微塵も見せなかった一ノ瀬の病気の怖さを、澤良木は改めて感じた。 「今回の件では、支倉(はせくら)は動かない。怪我を負わせた三隅に対してもおとがめなしだ。まぁ当然だな。柚木に対しては慰謝料を払う用意があると言っていたが、それは本人と……というか、まぁ三隅とになるが、相談して決めると答えておいた。一ノ瀬と高村の両名については、今後一切柚木の前に現れないと念書を貰っている。これでとりあえずは、片付いたな」  ふぅ、と大きな息を吐いた八代の前に、澤良木は日本茶を淹れた湯呑みをことりと置いた。 「柚木は……大丈夫でしょうか」  ソファに腰を下ろした八代の斜め横に、フローリングの床に膝を付いて、澤良木も座った。 「さあな」  とクールに八代が答えた。  それから小さく鼻を鳴らして、湯呑みを掴むと、ごくりとそれを飲んだ。 「三隅がなんとかするだろう。これまでも、そうだった」  八代の断定口調に、澤良木の不安も慰められた。 「腹が減ったな」  八代が、お茶をまたひと口飲んでそう言った。昼食もろくに摂る暇もなく、朝から動きどおしだったのだ。言われてみれば澤良木も空腹を覚え、 「どこかで食べてから帰りますか?」  と尋ねた。八代はその問いに首を振って、食事の匂いがキッチンから漂ってきていることを指摘した。 「旨そうな匂いがしてるな。おまえが作ったんだろう?」 「はい」 「ならそれを食う」 「ですがあれは、柚木と副社長のために……」 「どうせしばらくは起きて来ないだろう。今日はここに泊まりだ」 「え……」 「家に寄って、着替えを持って来た。俺とおまえが無断で泊まったぐらいで、いまさら三隅も文句は言わないだろう。それになんだ、(せつ)。おまえ、その服は、三隅のものだろう。なんで着替えた」 「いえ、あの……副社長が入浴中に寝てしまわれて……それを起こすのに、濡れてしまったので」 「風呂だと? おまえ、三隅と風呂に入ったのか?」 「ち、違いますっ! それよりも、社長、今日の宿泊は、なにか気がかりなことでもあるのですか?」  八代のとんでもない勘違いを慌てて否定した澤良木は、八代にここへ泊ることの意図を尋ねた。  八代が一拍、押し黙り、野生動物のような鋭い眼差しを、寝室の方角へと向ける。  親指の腹で顎をこすりながら、八代がポツリと言った。 「わからん」  彼の答えに、澤良木は少し驚く。  八代にも読めないことがあるのだな、という、純粋な驚きだった。 「俺は三隅とは長い付き合いだが……奴のあんな(くら)い目は、初めて見た。あの女が三隅を止めなければ、本当に一ノ瀬を殺していたな……。強い感情というのは、振り子のようなものだと、俺は思う」 「……振り子、ですか?」 「受け止めるものがないと、振れた幅のぶんだけ戻るんだ」  八代の指が、Uの字をなぞるように中空を往復する。  その動きを見ながら、澤良木は思考した。    一ノ瀬に対する三隅の殺意は、佳澄の言葉によって霧散した。  けれど、彼の鬱屈自体が消えたわけではない。現に三隅は、あの家を出る直前に、どろりと濁った視線を一ノ瀬と柚木の弟に向けていたのだ。  八代の弁を採用するならば、殺してやる、と強く殺意に傾いた感情は宙ぶらりんとなり、昂ぶったときと同じだけの急激さで、下降しているということになるだろうか。  三隅が風呂場で見せた異様な疲れも、そういった感情の揺れ動きが影響しているのかもしれなかった……。 「柚木だけじゃなく、三隅の精神状態も心配だ。明日は仕事があるが……ぎりぎりまでここに居るつもりだ。おまえも付き合え」  八代の指示に、澤良木は「はい」と答えた。  ここに泊まることが決定事項であるならば、とりあえずは食事だ。  三隅と柚木の胃を(おもんぱか)ってあっさりしたものしか用意していないので、八代のために数品を追加すべく、澤良木は再びキッチンに立った。  他人様の家のものを好き勝手に使うことは憚られたが、八代が居るのだから大抵のことはゆるされるだろう。  澤良木は開き直って、冷凍庫から牛肉を取り出したのだった。                 

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