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第12話:貴方のために

 早朝の森は、幻想的で美しい。  太陽の光がまだ弱いこの時間は、木々の色が薄くなっていて、いつもより優しい情景となって目に映る。朝靄がかかった小道も、まるでおとぎ話に出てくる神秘的な森みたいで昔から大好きだった。  母が生きていた頃、ちょうど朝の数時間だけ見ることのできるこの不思議な空間をよく歩いた。母曰く、人工建造物のない森を散策していると、故郷である日本に帰ったような気持ちになれるのだそうだ。  思い出しながら小道を歩いていると、少し先の開けた場所に大きな泉が見えた。  あの泉にもたくさんの記憶の欠片がある。昔、先代や両親たちとバーベキューをしたり、ヴィートと釣りなんかもした。じっと待っていることが壊滅的に苦手なヴィートは、よく釣り竿を放り出して自分が湖の中に入って遊んでいたが、それで一度溺れかけ、二人して怒られたこともあった。  しかし――――。 『この湖はそんなに大きくないが、別の場所にある大きな湖と地下の深い場所で繋がっているから、溺れれば遺体すら上がらない。危ないから二度と入るな』  まさか、あの時先代に忠告された言葉が、こんなところで役に立つとは思わなかった。人生とは本当に不思議なものだ。  湖の水際まで足を進めたセイが、そっと中を覗き込む。  水面は美しく透き通っていて、十メートル下まではっきりと見ることができた。だがその奥は、どんどん暗くなっていくばかりで底がまったく見えない。水深が深すぎて陽の光が届かないのだ。  そう、ここならば――――ここならば決して遺体は見つからない。  母と手を繋ぎながら何度も一緒に覗いた思い出の湖を見つめ、下唇を小さく噛む。  こんな選択をして、エドアルドはきっと怒ることだろう。  我儘を通す形で番になって貰ったというのに、次の日に姿を消すのだなんて裏切りもいいところだ。  けれど、これが全てを丸く納めるための最善の方法だった。  ヴィートは、セイとエドアルドが番契約を結んだことを絶対に許さない。真実を知れば即座に、言い訳すら聞くことなくエドアルドに鉄の鉛を撃ち込むはずだ。例えそれが後々になってマイゼッティーファミリーの人間に糾弾される結果となったとしても、彼は少しも気にしない。それどころか『自分の大切なファミリーを慰み者にした』と正当性を突きつけて相手を黙らせてしまうことが目に見えている。  だが、セイがエドアルドの番になったという証拠がなければ――――。 そう、これがセイの決意した人生最後の計画だった。  マフィアの世界の掟には、『明確な証拠もなしに相手に罪をなすりつけ、殺してはならない』というものがある。これは無駄な殺し合いやファミリー間の抗争を防ぐためのものであり、やはり破れば厳しい制裁が科せられるのだが、この律に従わなければならないヴィートはセイが見つからない限り、エドアルドに手を出すことができない。  ヴィートは掟を重んじる人間であると同時に、古くからこの世界に名を残す名家の長。そんな人間がファミリーの破滅に繋がる恐れのある愚行を犯すはずがない。いや、犯すことができないと言ったほうが正しい。  だから自分はこの道を選ぶのだ。この深い湖に身を投げれば、一生ヴィートに見つからない。エドアルドを殺すための物的証拠は全て消滅する。 「ごめんね、エド……」  ここにいない最愛に、小さく謝る。  朝、目を覚ましてセイが隣にいないことに気づいたら、彼は不安になるだろうか。どこを探しても見つからないことに、心を痛めるだろうか。エドアルドの性格から考えて酷く落ちこむことを予想して、心苦しくなる。  でも――――大丈夫だ、きっと辛いのは最初だけ。彼だってファミリーを束ねる長なのだから、時間はかかってもいつか『これでよかったのだ』と納得してくれるはずだし、アルファはオメガと違って番を失っても他のオメガを迎えることができる。そう、セイがいなくてもちゃんと生きていけるのだ。  彼が自分の知らない誰かに愛を囁く未来を想像すると、飛び込む前に心臓が止まりそうになるくらい辛くなるけれど。  ――――これでいい。 「ありがとう、エド。僕と出会ってくれて……」  最後にそっと自分の項を撫で、礼を告げる。その言葉が風に溶けると同時に、セイは大きく一歩踏み出した。  次の瞬間、ザパンッ、と水面に派手な飛沫が上がる音が立つ。だが耳に届いた音はすぐに籠もったものとなり、内耳が薄い圧迫に包まれた。  春の水は心臓が冷え上がるほどではないが、それでも一瞬で体温を奪うほどで、たちまち全身の皮膚感覚がなくなる。そんな中、薄目を開けると水の上にある白い光が視界に入ってきた。いつの間にか水中で身体が反転していたらしい。  ――――綺麗だ。  死が目前にあるというのに、降り注ぐ日差しがまるで光のカーテンのようで思わず感動を覚えた。  最後に見られたのが、こんなにも美しい光景でよかった。セイは水の冷たさに固まった口角をやんわりと上げ、そして最期の覚悟を決める。 そんなセイに突然の変化が起こったのは、肺に水を入れるため口を開こうとしたその時だった。  重力に引かれ落ちていく中、いきなり二の腕を掴まれ、沈んでいっていた身体がどんどん上へと引き上げられ始めたのだ。  一体何が。まったく想定していない状況に驚いて目をしっかり開けると、目前には部屋を出ていく時にはまだ眠っていたはずのエドアルドの横顔があって。 「……っ、はぁっ!」  理解が追いつかない内に、頭が水面から上がる。すると本人の意思とは関係なくずっと酸素を求めていた肺が、急激に動き始めてセイはその反動で大きく咳き込んでしまった。 「ごほっ、ごほっ、ごほっっ……」 「っ、セイ……セイ、大丈夫ですかっ! しっかりして下さい!」  二度と水中に沈まないよう背中をしっかりと抱かれ、川縁へと押し上げられる。そうすると今度は頭上から二本の腕が伸びてきてセイの身体を完全に陸へと引き上げた。 「セイっ」  緊迫した声で名を呼びながら、横抱きにかかえてくれる。その時にふわりと鼻を擽ったのは、長年の付き合いですっかり覚えてしまった友人のコロンの香りだった。 「ヴィ……」 「無理に喋らなくていいから! ああ……何でこんな……」  水に冷えていない温かな指が、何度も頬を撫でる。その優しい体温はすっかり冷たくなってしまった身体にはありがたいものだったが、今のセイにとっては絶望でしかなかった。 「ふ……っ、ぅ、くっ……っ……」 「……セイ? どうしたの? 何故そんなに泣いて……苦しいのかい?」 「ど……し、……て……」 「え?」 「……して……しなせて……くれ……かったの?」 「セ……」  上からこちらを覗き込んでいたヴィートの顔が、驚愕に固まる。 「エド……失……くらいなら……しにたかった…………」  ヴィートに見つかってしまった以上、この計画は失敗だ。失意に涙が止まらない。 「ねが……ヴィー……エドをころさ……いで…………ぼくが、かわりに死ぬから……」  ただ、それでも最後まで諦めたくなくて、セイはまだまだ酸素が足りず呼吸すら整わない中で何度も何度も願った。  自分の命なんていらない。エドアルドが生きていれば、それだけでいい。懸命に訴えると、こちらを見つめていたヴィートがぐっと眉根を寄せ、辛そうな表情を浮かべて静かに言葉を落した。 「そんなに……エドアルドが好きなのか?」 「ヴィー……?」 「これまで築き上げたものや僕らの大切な思い出を、こんな簡単に捨てようとするなんて……君は本当に薄情な奴だよ」  文字だけ取れば文句に聞こえる言葉だが、こちらを見つめるヴィートの眦には、涙が溜まっていた。  絶対に怒鳴られると思ってた。勝手なことをした罰に、目の前でエドアルドを殺してやると、冷たく宣言されると思っていたのに、セイが目の当たりにしたのは、まったく予想外のことで。  驚きに、言葉が止まってしまった。 「どうして俺がセイの運命じゃないんだろうね……こんなにも君のことを愛してるっていうのに……」  言いながらヴィートは何度も愛おしそうにセイの頬を撫でる。  それは穏やかだが、これまでで一番強く伝わってくる感情だった。  セイが好き。セイを愛している。ヴィートの身体中から気持ちが伝わってきて、自分はこんなにも友に愛されていたのだと、改めて思い知らされた。だけれども――――。 「ごめんね……ヴィー……」  セイには、その言葉しか返すことができなかった。  今、ここでどんな台詞を並べようが、セイの気持ちが変わらない限り、ヴィートを傷つけるものにしかならない。ならば何も口にしないほうがいい。  そのまま見つめていると、視線を落したヴィートが一つ深い溜息を吐いてから、微かな自嘲を浮かべた。 「……いいや……セイが謝る必要はないよ。これもすべて運命が……決めたことなんだから」  切なげな声色の返事に、自然と目が丸くなる。謝る必要がないとはどういう意味か。探るように凝視したところで、セイはいつの間にか友人を包む空気の色が変わっていたことに気づいた。 「さっき、何で俺が……なんて嘆いたけど、本当はずっと運命なんて関係ないって信じてた。セイに対する誰にも負けない愛があれば、天が定めた相手であっても負けることはないって……」  唇を噛み、何かを堪えるように震わせる。 「けど……セイがエドアルドのために自分の命まで捨てようとした姿を見て、俺の考えが甘かったことを思い知ったよ」  ぎゅっと閉じたヴィートの眦から、透明の雫が零れる。それはセイの濡れた身体から飛んだ飛沫か、はたまた彼の涙か。 「俺はセイを誰にも渡したくない。でも、そのためにスコッツォーリを潰せるのかと問われたら……正直、迷ってしまって即答できないだろう……」  スコッツォーリは父が、祖父が、そして先祖たちが長い間、己のすべてをかけて守ってきた歴史あるファミリーだ。その長い年月の中には欲しくても手に入れられなかったものや、涙を呑んで諦めたものもあっただろう。愛しているのに別れなければならなくなった相手だっていたはずだ。そんな先代たちの犠牲のうえで築かれた家を、愛や欲で安易に壊すことはできない。自分はそういう立場なのだと、ヴィートは告げる。 「それなのに君やエドアルドといったら、対のためならどんなものでも手放すことができる、なんていとも簡単に言ってしまうんだから……」  本当に嫌になるよ。顔を上げたヴィートに不平をぶつけられてしまったが、その表情からこちらを責める怒りは感じ取れなかった。 「エド……も……?」 「昨晩、君と似たようなことをエドアルドからも言われたよ。自分は潔く制裁を受け入れて死ぬから、セイとマイゼッティーファミリーのことを頼みたいって」 「え……?」  それは昨日、エドアルドに抱かれたセイが眠りに就いた後の話だという。  深夜、発砲騒ぎに紛れて姿を消したセイを探すヴィートの下へ、エドアルドから『セイは今、自分と一緒にいる』という一本の電話が入った。当然、怒りに支配されたヴィートは、脅すような言葉でエドアルドに迫ったそうだ。ファミリーを潰されたいのか、全員見せしめに惨殺してやろうか、と。  そんなヴィートに、エドアルドは冷静な言葉で取引を持ち掛けたのだという。 「制裁……うけいれる……?」 「勿論、俺は断ろうとしたよ。どうせ電話の時点でもうセイは項を噛まれている。その状況でエドアルドを殺せば、君は番を失ったショックから次第に衰弱して死を迎えるだろう。つまり、どのみちエドアルドに奪われることになるんだからね。だから俺は、それじゃあ気が収まらないって言ったんだ。そうしたら、この男は何て返したと思う?」 「なん……て?」  問い尋ねると、ヴィートはすぐに人を小馬鹿にしたような調子で笑った。が、その呆れ顔の中には強い悔しさが混ざっている。 「…………セイの項は噛んでない。番にはなっていないから、まだ君のところに戻れるって言ったんだよ」 「なっ……!」  伝えられた衝撃的な事実に、一瞬で息が喉で詰まった。寒さで悴む指が自然と首筋に向かう。 「うそだ……だって昨日、ぼくたちは……」  昨夜、確かにエドアルドは項に歯を立てた。その記憶は今でも鮮明に残っている。だから嘘のはずがない。 「俺もここへ来るまでは、エドアルドの方便だと疑っていたよ。でも、さっき湖からセイを引き上げた時に項を見て……嘘じゃないと分かった」  それは即ち、セイの項にアルファの歯形がなかったということだ。 「そんな……信じられないよ、だって僕ら、運命なんだよ……?」  魂の対同士のフェロモンは意思や感情すらも凌駕し、相手を酔わせる。その強さは近づくだけでも自制心を揺るがせるほどなのに、体内中のフェロモンが最大まで解放される性交中に相手の項を噛まないよう欲を抑え込むなんて不可能だ。  実際、セイだって昨晩は欲の獣に成り下がっていたし、エドアルドも衝動に従順となっていた。それはこの目で見たのだから間違いない。 「うそだよね、エド……僕を番にしなかったなんて……」  寒さではなく悲しみで唇を震わせながら、湖から上がったエドアルドを見つめる。すると、ポタポタと雫が落ちる前髪の奥になった彼の瞳が、辛そうに細められた。 「…………ごめんなさい。昨晩、私は貴方のフェロモンが開いた直後に即効性の抑制剤を飲みました」 「っ! ど……うして……?」 「貴方と…………番にならないようにするためです」  エドアルドの口から一番聞きたくない言葉を言われ、辛さのあまり心臓がぎゅっと嫌な痛みを発した。 「エド……ぼくと番になるの……いやだった……の?」 「っ、そんなことありません! 貴方から項を噛んで欲しいと頼まれた時、私は心が震え上がるほど嬉しかった。それは嘘じゃない。ですが……あの時、同時に母の顔が浮かんだんです」 「エドのお母さん……?」 「前に話したでしょう? 私の両親は運命の番同士で、母は父が死んだ後、後を追うようにして衰弱死したと……。もしここで貴方を番にしてしまったら、きっと同じ結末を迎えてしまう。そう思ったら……」  ヴィートとのことも考え、セイの項を噛むことができなかったのだと語る。 「私は昨日、貴方に会えた時点で死を覚悟しました。ヴィートは絶対に私を許さない。だから被害を最小限で抑える策を講じたんです」 「それが……自分ひとりで死ぬことなの?」 「……ええ」  躊躇いなく頷いたエドアルドの姿に、涙が止まらなくなった。 「ひどいよ……エド……そんなの……」  昨晩、項にエドアルドの吐息を感じたあの瞬間が、人生で一番の喜びだった。全身の細胞全てが愛おしい対の色で染まり、ようやく彼だけの所有物になれたのだと最高の気持ちに浸っていたのに。  それが蓋を開けてみれば、エドアルドの方が先に死ぬ覚悟を決めていて、しかも番にすらして貰えていなかっただなんて。  怒りなのか、悲しみなのか、それとも不服か。どの感情が込み上げてきているのか分からないが、騙されていたことが納得できなくてエドアルドから視線を大きく逸らす。と――――。 「プッ、クッ……ふふっ……」  セイを抱えていたヴィートが、面白いことを発見したかのように突然吹き出し、笑い始めた。 「ヴィー……?」  どうしてこんな緊迫した場面で笑い出すのだ。二人の仲を引き裂きたい人間として、今の状況が嬉しくて仕方ないとでも言いたいのだろうか。場にそぐわない態度に腹が立ち、睨みつける。  けれどヴィートはそんな顔しても怖くないと言わんばかりに、言葉を続けた。 「酷いって、ついさっきエドアルドを助けるためにと湖に飛び込んだ君に、文句を言う資格はないと思うんだけど」 「え……」 「俺が気づいていないとでも思ったのかい? どうせ君のことだから、自分が行方不明になって見つからない限り、エドアルドに制裁を加えられないとでも考えたんだろう?」  悪いがすべてお見通しだ。長年の付き合いでセイがヴィートを熟知しているように、自分もセイのことを知り尽くしている。ゆえに、この場所を突き止めるのも容易だったと言われ、セイは思わず口をぽかんと開けてしまった。 「自分だって死ぬつもりだったくせに、命と引き替えに君を守ろうとした彼を酷いと罵るのは筋違いじゃないかい?」 「そ……れは……」  確かに言われてみればそうだ。己の失念に気づいたセイは、何も反論できない。 「ごめん、エド……言いすぎた……」 「いいえ、貴方を傷つけたことには間違いありません。ですから気が済むまで罵って下さい」 「それなら僕も罵ってよ」  再び視線を絡めながら、二人で何度も謝り合う。  すると完全に存在を忘れられていたことに腹を立てたのか、ヴィートが唐突にチッと小さな舌打ちをした。 「俺の前で安い惚気とマゾ性癖を告白しあうの、やめてくれるかな?」 「あ、ヴィー、ごめん……なさい」 「すみません」  まずい、ただでさえ怒っているヴィートへ、さらに油を注いでしまった。二人で顔を真っ青に染めながら、恐怖に身体を固める。 「……あーあ、まったく、君たちには興ざめだよ。由緒正しきスコッツォーリファミリーの幹部と、マイゼッティーファミリーのドンが尊い自己犠牲の押し売り合いだなんて……二人とも安い恋愛映画の見すぎなんじゃないのかい? 本当、面白くも何ともなくて、いい加減付き合うのも飽きてきた」  ヴィートは二人に弾丸のごとき不平を投げつけた後、気に入らないと言わんばかりにそっぽを向いた。 「俺だって暇じゃないんだ、悪いけどここで降ろさせて貰うよ。――――おいエドアルド、いつまでそこで情けない顔を晒してるんだ。大男が気持ち悪い。そんなことをしている暇があったら、さっさとこっちに来て自分のオメガの介抱をしてやれ」 「ヴィート……? え……ええ、分かりました」  やにわに促されたエドアルドが立ち上がり、近くまで寄ってヴィートの腕からセイを受け取る。両者の間でまるで荷物みたいに扱われたセイは、理解が追いつかないという顔で視線を右往左往させた。 「ヴィー?」 「……もしも」 「え?」 「もしも昨晩、エドアルドが君の項を噛んでいたら、俺はきっとどんな結末になろうが彼を殺していたよ」  セイの運命が頭の切れる男でよかったね。ヴィートは静かにそう告げながら立ち上がる。 その時、ちょうど空に登った太陽の強い光が逆光で彼の顔を隠してしまったが、その前にほんの少しだけ見えた表情が酷く悲しそうなものに見えたのは、きっと間違いではない。  許してくれたのだろうか、二人のことを。  背を向けて湖から去っていくヴィートの後ろ姿を見つめていると、涙が自然に浮かんだ。  幼い頃からずっと一緒に育ってきた彼の愛を受け入れることはできなかったが、それでも昔は一人のオメガとして、ヴィートと番になったら、なんて考えたこともあった。無論、それは夢物語に近いもので、想像の中にとどめておくだけだったが、もしエドアルドと出会わなかったら、もし今よりずっと前に愛を告げられていたら、二人は生涯を誓う仲になっていたかもしれない。  セイにとってそこまで考えられる、世界で一番大切な友人だったのだ。  だからこそ、ヴィートを悲しませてしまったことが、辛くて仕方ない。  今の自分が彼に対してできることは残念ながらないけれど、いつかは精一杯の恩返しがしたい。心の中で決意していると、不意に濡れて額に張り付いていた髪を払う指の感触で現実へと引き戻された。 「エド……?」 「大丈夫ですか?」  不安そうな顔で聞いてきたのは身体のことか、それとも心のことか。 「…………うん、大丈夫だよ。そっちは?」 「私は平気です。先ほどは心臓が……潰れそうになりましたが」 「僕もエドの決意を聞いた時は、びっくりしたよ……」  手を伸ばして自分と同じようにずぶ濡れのエドアルドの頬を、そっと撫でる。 「ごめんなさい、貴方を傷つけてしまって……」 「それならもう謝らなくていいって。じゃないとエドが謝り続ける限り、僕だって謝り続けるよ?」 「そんなことをしていたら、二人して風邪を引いてしまいますね」  何せ今の二人はずぶ濡れだ。この場に長くとどまればとどまるほど体調を崩すことになるだろう。  だからせめても、と二人で額をくっつけて体温を分かち合った。 「でもエドは凄いね、いくら抑制剤飲んだからって、あれだけのフェロモンに誘われなかったなんてさ」 「正直、自分でも自信ありませんでした。セイのフェロモンは魅力的すぎて、最中、何度も衝動に負けそうになりましたし」  セイの首筋に歯を当てた時が一番危なかったらしい。言われて思い出すと、納得とともに寂寥感がぶり返してきた。 「ん……」 「どうしました? 悲しそうな顔をして……」 「今回のことは仕方なかったけど……やっぱり番になってないことが寂しいなって……」  未だ自分はエドアルドの正式な番ではない。改めて真実に向き合うと、心にじわりじわりと悲しみが募った。  オメガはアルファとの関係に対して心が敏感に働く習性があるというが、きっとこの感覚もその一つなのだろう。  本当なら、今すぐにでもエドアルドの一番になりたい。親に我が儘をいう子どものように簡単にそう言えたら、どれだけ楽だろうか。けれど今はエドアルドに心配を掛けてしまったことから妙な遠慮が働いてしまい、言葉が形にならなかった。 「そんな顔をしないで。セイが憂うことなんて、まったくありませんから」 「え?」 「……本当はきちんと準備をして、最高の景色が眺められる場所でと考えていました。ですが、もう気持ちを抑えられそうにありませんので、今、ここで伝えさせて下さい」  頬を撫でていた指で手を握られ、そっと甲にも一つ唇を寄せられる。そして。 「セイ、私と結婚してください」  相手の呼吸音すら聞こえるほどの距離の中、穏やかな声で紡がれた。 「エ、ド……」  エドアルドと結婚。それは初めて出会った時、無意識に浮かべた憧憬だったが、叶うものではないと諦めていた。  だけれど、あの日心に描いたエドアルドが今、目の前にいる。そう認識した途端ぶわっと涙が溢れ出て、あっという間に視界全部が滲んだ。 「っ、……エ、ド……」  言葉で表すだけじゃ足りないぐらい愛おしいエドアルドが、自分のものになる。そしてセイ自身も、頭の先から爪先まで、余すところなく彼のものになれる。もう何にも邪魔されない。  ああ、こんなにも幸せな気持ちになってもいいのだろうか。 「僕と……一緒になって……くれるの?」 「勿論です。私が生涯をともに過ごせるのは、貴方一人しかいませんから」 「ありが……とう、すご……っ……嬉し……」  感極まりすぎて、どんどん湧き出てくる涙が止められない。おかげでちゃんとした返事をかえしたいのに嗚咽は止まらないし、挙げ句には息苦しくなってくる始末だし。もし誰かがこのプロポーズ現場を見たら、きっと不格好なカップルだと笑うことだろう。  でも、それでいい。  呼べば返事をしてくれる場所にエドアルドがいる。一緒に笑い合って、二人で生きていくことができる。もうそれだけで十分だった。

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