69 / 112

第69話 天使と悪魔

 ゆっくりと隣にしゃがみ込み、下を向いている横顔を覗き見た。顔を近づけても反応がないところを見るとかなりぐっすりと寝ている。じっとそれを見つめていた光喜は壁に手を付いて身を屈めると、額に唇を寄せた。  本当は寝息を立てている唇にしたいと思ったが、初めてのキスはやはり目が覚めている時のほうがいい。いつもよりあどけなさを感じる寝顔に光喜はやんわりと笑みを浮かべた。けれどしばらくそのまま眺めていたら、身体が冷えたのか盛大にくしゃみをしてしまう。 「……み、つきくん?」 「あ、起こしちゃった。小津さん待たせてごめんね」 「うん、だいじょ……」  目を瞬かせて顔を持ち上げた小津は視線が合ったあと急に言葉を詰まらせて固まった。その反応に光喜が首を傾げると、暗がりでもわかるほど顔がじわじわと赤く染まっていく。そして彼は勢いよく視線を外して俯いた。 「小津さん?」 「……み、光喜くん。か、風邪引くから、ちゃんと」 「え? ああ、そっか、ごめん」  裸にタオル一枚、目のやり場に困っていることに気づいて光喜は小さく笑ってしまう。それでも自分に対して意識をしてもらえるのは嬉しい。耳まで赤くなっている顔をわざと覗くと落ち着きなく視線がさ迷う。 「ねぇ、小津さん、泊まっていって」 「え?」 「今日は一人になりたくな、い、……くしゅっん」 「光喜くん、ほんとに風邪引くよ。まだ髪、濡れてる」  いい感じに言葉を紡ごうとしたけれど情けないくしゃみに邪魔をされる。けれどそのおかげで小津が振り向いてくれた。伸びてきた手がまだ水気を含んでいる髪を優しく撫でる。その感触に光喜が頬を緩めて笑うと、少し困ったような笑みを返された。 「あ、ちゃんと布団はあるよ、心配しないで」 「……うん。ありがとう。でもその前に、ちゃんと乾かして」 「小津さんもお風呂に入る? 着替えは、ないからシャツとTシャツとパンツは、入ってるあいだに洗って乾かしておいてあげる」 「え? いや、いいよ!」 「いいからいいから」  慌てた様子で首を振る小津は少しずつ後ずさりをしていく。けれど光喜は立ち上がって腕を強く引いた。全力で抵抗してくるが、負けじと力を込める。ここで身ぐるみ剥がしておかないと逃げ出される可能性がある。  しかしまた鼻がむずむずとしてきて思いきりくしゃみを連発してしまう。するとさすがにこれ以上は攻防を続けられないと悟ったのか小津の身体から力が抜けた。 「わ、わかったから、なにか、着て」 「うん、じゃあ、脱いだのは洗濯機に入れておいて」  手を離すと大きく息をつかれたが、もう逃げる素振りも見えないので光喜は脱衣所に足を向けて床に放って置いたものを洗濯機に突っ込んだ。そして携帯電話と財布とパスケース、それを持って廊下に戻り視線で小津を促す。 「ゆっくりしてきてね。タオルとかは適当に使っていいから」 「う、うん」  ぎこちない笑みを見送って、扉を閉めた光喜はペタペタと足音をさせながら寝室へ向かう。そしてクローゼットを開いて布団一組を引っ張り出した。けれど敷いた布団を見つめて考え込むように動きを止める。 「これって、……やっぱり押し倒すチャンスじゃない? 酔い潰す、としたら。あ、いや、でもいきなりそれはまずいかな。けど、一緒に寝る機会とかってそうそうないし。あー、でも告白が先? そ、そうだよね、そっちが先だよね。頑張るとこ間違えちゃ駄目でしょ」  邪な思考を振り払うようにふるふると首を振った。けれど改めてこの状況を考えると火が付いたように顔が熱くなる。健康な成人男子、おかずにしてしまった人を前にして欲を抱かないほうがおかしい。  茹で上げられたみたいに熱くなる自分に困惑しながら、光喜は唸り声を上げてしゃがみ込んだ。これはどの選択が正しいのだろうか。告白をしてから次のチャンスを待つ。それともいまのチャンスを逃さない。  まるでそれは天使と悪魔の囁き。理性と本能が頭の中でぐるぐると渦を巻き始めた。

ともだちにシェアしよう!