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第2話 初日

「おはようございます」  若干、緊張しながら事務所に足を踏み入れた。どうせホテルの制服に着替えるのだからスーツじゃなくていいと言われ、ラフな格好で来たが、本当に良かっただろうか。並んだデスクの奥で、千尋がひらひらと手を降っている。 「見て見て、みんな! 若い子だよー! 労働力が入ってきたよー! ガンガン力仕事やってもらってね」  律がぺこりと頭を下げると、デスクに座っていた面々から割れんばかりの拍手が起こった。ラブホテルの従業員とやらをどんな人種が行っているのか見当もつかなかったが、蓋を開けてみれば人の良さそうなパートのおばさんたちだ。 「あれ、ていうかリュウは?」 「寝坊じゃないですかぁ? あの子昨日、飲みに行くって言ってましたよ」 「えー、しょうがないなぁ」  仕事を寝坊ですっぽかす人間を「しょうがない」で済ませてしまうのは、いかがなものか。眉間に力が入った律を見て、なぜか千尋が言い訳めいた発言をする。 「普段は案外真面目なんだけどね。時々、やらかすんだよ、アイツは」 「はあ、そうですか」  としか、返しようがない。 「ライオンみたいな奴で、見たらすぐわかるよ。……んー、どうしようかな、リュウに案内させようと思ってたんだけどなー。奈々ちゃんはいるんだっけ?」 「奈々ちゃんは、今日来ませーん」 「あー、そう」  Tシャツにチノパンという昨日よりは比較的まともな格好をした千尋が、ぽりぽりと頭の裏をかく。 「よし、じゃあ俺が案内するよ。おいで、りっちゃん」  律は「はい」と返事をして、先を歩いている千尋の後を追った。りっちゃん、と呼ばれることに対して大いに不満があったが、何も言わずに足を進める。  他のラブホの求人と比べてみても、ここの待遇は別格だ。福利厚生はしっかりしているし、せっかく就職先が見つかったのだから、しばらくは大人しくしているつもりだった。 「全部で40部屋。タイプは色々、キレイ系とかプール付きとか、SM部屋ね。んで、気をつけて欲しいのが、お客様と顔を合わせないようにすること」 「……それは他のラブホでも同じように行われているんですか?」 「んー、どうだろ。だいたいはそうだと思うけど、でも実際は俺のこだわりだよ。今からセックスすんぞぉって気合い入れて来てんのに、従業員と会いたくないじゃん」  ホテルという名が付くのは同じだが、前職のフロント業務に比べるとまったく別のものだとわかる。王国ホテルで客に鉢合わないようにこそこそしていたら、大クレームものだ。 「バックヤードにモニターあるから、一応確認してから廊下に出て」 「はい」 「清掃の仕方はわかる? あ、フロントだっけ」 「以前、研修を受けたので、基本的なことはわかります」 「さすが。いいねー。そんじゃ、バイブとかお客様が使ったおもちゃの消毒の仕方だけ、あとで佐藤さんに聞いといて。佐藤さんってのは、髪の毛が紫色のおばちゃんね」 「……わかりました」 「試しに中に入ってみる?」  千尋は持っていたマスターキーで、近くの部屋の扉を開けた。おいでおいでと手をこまねいて、少年みたいににんまりと笑っている。 「驚くよ、きっと」  いまさらラブホテルにどうのこうのと興奮する年齢じゃない。律は若干呆れながら、オーナーの背中を追いかけた。ツインベッドを取り囲むカーテン。千尋に手を引かれ、その奥の小さな暗闇の中に入る。 「なんすか、ここ」  ベッドのスプリングが音もなく軋んだ。柔らかく微笑んだ千尋に少しだけ見惚れてしまい、妙な罪悪感がこみ上げてくる。 「目、つぶって」 「は?」 「いいから」  もったいぶるような千尋の態度に、いい加減辟易していた。ここまで引っ張っておいて、くだらなかったら文句の一つでも言ってやろうと決め、律は目を乱暴に閉じる。 「開けていいよ」  ゆっくりとまぶたを開けた律は、目の前に広がる光景に言葉を失った。 「どう?」  にゅっと千尋の横顔が飛び出してきて、ようやく口元を動かす。 「すげぇ……綺麗、です」  暗闇に浮かぶ幾千もの星。偽物だとわかっていても、美しいと思わずにはいられなかった。 「俺の一番のオススメ。業務用のプラネタリウム使ってんだよ。ちなみに部屋の名前は『きらめく星のラブ&ピース』」 「ネーミングセンス最悪っすね……」 「だろ? そこも気に入ってんの」  子供みたいに言い張るから、こらえきれずに笑ってしまう。 「あーあ、笑われた」  冗談ぽく言って、千尋は軽くウェーブのかかった前髪をかき上げた。瞳に散らばる星のかけらたちがピカピカと光る。これ以上、密室で見つめ合っていたら酔っぱらいそうだ。 「良かったら、りっちゃんも彼女連れて来るといいよ。ここで口説いたら一発だから」  一瞬で現実に戻される。薄闇のカーテンを開けて、律は甘ったるい空間から逃げ出した。 「女に興味ないんで」 「えー、もったいない」  むしろ、男にしか興味がないが、正直に言うほどばかではない。  それから一通り業務についての説明を受け、部屋を出た。廊下の曲がり角に差し掛かったところで、千尋が「やべ」とつぶやく。 「人来ちゃったわ」 「えっ?」 「律、こっち」  ぎゅっと手首を引かれて、気づいた時には男の腕の中にいた。  咄嗟に他の部屋に隠れたのは理解したが、あまりにも近すぎる。離れようとして身をよじると、千尋は真剣な顔で「まだだって」と律の腰を引き寄せる。  この男は、同性同士の何気ないスキンシップとしか捉えていないのだ。こちらがゲイであることに何の配慮もない。律は真っ赤な顔でうつむきながら、やっぱり先ほどゲイだと言ってしまえば良かったと思った。  千尋の体から甘くて苦い煙草の匂いがする。忘れたいのに忘れられない匂い。苦しくて、苦しくて、どんどん息ができなくなってくる。  扉の向こう側から聞こえるカップルの楽しそうな笑い声が過ぎるのを待つ間、千尋は困ったように眉尻を下げた。 「そんなあからさまに嫌な顔すんなっつの」 「……別に」 「んな、臭い? 煙草嫌いでしょ、君」  思わぬ観察眼に、喉がひゅっと鳴る。泣きたい気持ちを胸の奥底に押し込め、律は指先を握りしめた。 「違います。その銘柄を吸ってた人が嫌いってだけです」 「ああ、あるよなぁ。匂い嗅ぐと思い出すって」  ふいに笑顔を取っ払った千尋の横顔は、いつものような陽気さがなく、ひどく寂しげな影がさしているように見えた。
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