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第9話 逃走

「つまりゲイなんだ、りっちゃんは」  季節の盛り合わせから始まり、甘鯛の塩こうじ漬け焼きからサーロインステーキまで次々に運ばれてきたコース料理は、どう考えても律が支払えるような金額ではなかった。個室の料亭に連行される前に「金ないですって!」と必死の形相で口走ると、「んなこと心配しなくていいの、君は!」とますます千尋を怒らせてしまった。 「楓さんを巻き込んで……くだらない見栄はってすみませんでした」  深く頭を下げると、歯切れの悪い答えが返ってくる。 「いや、別にいいけどさぁ。イマドキ、ゲイなんて珍しくもなんともないしさぁ」 「……別にいいって顔じゃない」 「律に怒ってるわけじゃなくて! 瀕死になるまで殴ってやればよかったんじゃねーの? あのクソ眼鏡。何が子供が出来ただよ」  千尋が箸を入れたクリームコロッケは二つに割ると、とろりと蟹味噌が飛び出してきた。淀みのない仕草でそれは千尋の口の中に入っていく。  箸の使い方一つで人間性が透けて見える。どんなに怖い顔をしても隠せない、この人はきっと愛情深く育てられた日向(ひなた)の人間だ。 「ゲイってだけでも生き辛いのに、犯罪者になったら手に負えませんね」  冗談で流せるかと思っていたのに、ふと顔を上げると、真剣な表情をした千尋が獣みたいに一途な瞳でこちらを見据えていた。 「君の心を不当に傷つけられて、あの男だけ罰がないなんておかしいだろ」 「俺の代わりに殴ってくれますか、あの人を」 「いいよ。律。俺は本気だ」  怒りを燃料にして動く生き物みたいだ。律のことを思って怒ってくれる千尋は、泣きたくなるほど格好良かった。こんなことを素直に口にしたら、怒涛の勢いでからかわれるだろうから決して言わないが。 「楓さんて、意外と熱いとこありますよね」 「……あのねぇ」  何を言われるのかと思ったが、千尋はそれ以上口にしなかった。だめな飼い犬を見つめる主人みたいに慈悲深い眼差しで、律を眺めている。 「何見てんすか」 「いや、あのクソ眼鏡は見る目ないなぁって。りっちゃん、こんなに良い男なのにね」  わざとかと思えるくらい、あざとさを前面に出した台詞だった。カッと頬が熱を持ち、指先の震えをごまかすために箸を握る。 「ていうか! 俺だけ振られた相手を見られるのはずるいっすよ! 楓さんの元奥さんにも会わせてくださいよ!」 「どういう理屈なの、それ」  明るく笑い飛ばした千尋をじろりと見上げた。 「……どんな方だったんですか、元奥さん」  茶碗蒸しを食べ終えた千尋が、片方の口角だけを上げるような、らしくない笑い方をする。 「かなりの美人でキャリアウーマン。俺も社内恋愛だったわけよ。上司だった彼女を俺からガンガン口説いて、やっとのことで結婚してもらったの。まぁ、最終的に俺がふがいないからフラれて離婚したんですけどねー」  そうっすか。  そう言って、律は何事もなく豪華なコース料理を全て平らげ、何事もなく仕事場に戻った。  乱れたシーツ。放り投げられたローション。破れたコンドームのビニール。我を忘れるほど愛し合ったと思われる形跡を丁寧にゼロへと戻してゆきながら、何やってんだ俺はと思う。  何が職場恋愛はしないだ。  何が間違ってもアンタを好きになったりしないだ。 「ばかだ、俺は……」  顔も知らない千尋の元奥さんに、頭がおかしくなりそうなくらい嫉妬している。今も千尋は彼女のことを愛しているのだろうか。一人きりで彼女を思っている千尋を想像したら、キリキリと心臓が締めつけられた。  キスがしたい。  こっちを見て欲しい。  抱かれたい、めちゃくちゃに。  好きだ、楓千尋が、好きで、好きで、たまらない。  どうする。どうすればいい。千尋はゲイじゃない。この気持ちに気づかれたら、奈々のようにやんわりと拒絶されてゆくだけだ。  何も最初からなかったかのように、振る舞えるのだろうか。そんなの無理に決まってる。でも……だって、そうしなければ――。 「りっちゃん、ひるめし――」 「すみません。もう食いました」  愛想笑いだけを残し、バックヤードから廊下へ出た。後を追って出てきたリュウが、律の肩を大きな手のひらで引き寄せる。 「お前、楓さんと喧嘩でもしたの?」 「してないですよ」  302の部屋に入り、淡々と業務をこなした。先ほどから全然戦力になっていないリュウが、怪訝な顔で言い放つ。 「えー……だってこれで何回目だよ、楓さんの誘い断んの。楓さん、マジで落ち込んでるぞあれ」  どうにもこうにも前へ進めないのなら、もう逃げるしかないのだと悟った。これ以上、千尋に関わったら、確実に元には戻れない。大好きなUNIQUE(ユニック)でこれからも働いていくには、この感情に蓋をするしか方法がない。  夜勤を終えて家に着いたのは、朝方のことだった。まだ日が昇ったばかりだというのに、拭いても拭いても玉のような汗が噴き出してくる。早くシャワーを浴びて、全てを洗い流してしまいたい。 ――嘘だろ、どうして。  律は目の前の光景を疑った。アパートの階段を上ったところに、見覚えのある人物が立っているのが見える。  このクソ暑い時期に何をしているんだ、あの人は。  ひっそりと息をして、今来た階段を静かに降りてゆく。律を待っているのは明白だったが、二人きりで会うのは危険すぎると思った。何を口走ってしまうかわからない。とにかく逃げなくては。  心臓はありえないくらいバクバクと鳴っていた。  もう放っておいてくれ。頼むから……本当に戻れなくなるじゃないか。 「律!」  一歩も動けない。  その声を、どうしても無視できなかった。咎める声じゃない、怒っている声でもない、それは今すぐに泣き出しそうな千尋の叫び声だったから。
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