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筏葛─マゾと長靴と梅雨の空(前)─

 昭和五年六月、東京府麻布区(※現在の東京都港区)……  その日、歩兵第三聯隊駐屯地に一人の陸軍工兵大尉の姿があった。その男は三年間の米国留学を終え、つい先日帰国したばかりの工兵科の俊英であり、名を尾坂(おざか)(せん)という。  パッと見た瞬間の印象は男装の麗人もかくやというほどの美貌の持ち主である尾坂は、今はその顔をこの国では滅多にお目にかかれない青灰色の瞳と共に軍帽を目深に被ることによって隠して歩兵第三聯隊が誇る“モダン兵舎”の門戸を叩いた。数年前、帝都に甚大な被害をもたらした関東大震災から復興した象徴でもあるこの“モダン兵舎”を彼が訪れた目的はたったひとつ。ここで聯隊本部附副官をやっている同期に会うためだ。陸士時代からの付き合いである同期は尾坂の突然の訪問にも嫌な顔ひとつせず、むしろ諸手を上げて大喜びで歓迎してくれた。  そうして案内された先で神妙な顔をしながら「相談がある」と、かくかくじかじか。尾坂から全てを聞き終わった後、同期は一旦沈黙し……そして。 「───よし、尾坂!貴様、サドになれ!」  カッと目を見開きながらビシッと指を突き付け、大きな声を張り上げた。 「…………………………………………………………………………………は?」 「だーかーらー!サドになれと言っておるのだ!尾坂!!」  たっぷり間を取ってからもう一度言えと促すと、自信満々に返ってきたのは先程とまったく同じ答え。  ふぅ、と溜め息をひとつ。大丈夫だ、問題ない。心は凪いでいる。たとえその凪いでいる水面の下が沸騰寸前まで沸き上がっていようとも、だ。 「ふざけているのか貴様。こっちが真剣に悩み抜いた末にもう貴様しかおらんと決心して相談を持ちかけたというのに、言うに事欠いて“サドになれ”だと?冗談はその軟弱極まりない言動だけにしろ、鷹山」  苦虫を噛んだような顔でじっとり睨む様子さえ麗しい同期に対し、歩兵第三聯隊本部で聯隊長の副官をやっている鷹山(たかやま)千晴(ちはる)は「心外だ」とばかりに堂々と胸を張って答える。 「俺は真面目も真面目、大真面目だぞ、尾坂!!だからこそ!俺は!お前に!サドになれと言ったんだ!」 「その回答が既にふざけているとなぜ判らん。人が真面目に悩んでいるというのにその悩みの解決方法としてサドになることを提案してくるなど……九割九分九厘が貴様の趣味だろ、このマゾ野郎」  ……罵倒だった。歯に衣着せぬ、見事なまでに剥き出しの侮蔑が混じった罵倒だった。  普通の人間だったら即座に抜刀騒ぎが起きていそうなものだったが、しかしここにいる二人はその“普通”のカテゴリには入らぬ者同士だ。ちなみにそれは陸軍士官学校という国内でも海軍兵学校や一高と並ぶ超難関学校を卒業したという意味ではない。そんなものは現役の陸軍将校である二人にとっては当たり前のこと。二人の周囲には陸士卒の秀才俊才天才など掃いて捨てるほど溢れている。 「すまん、今のもう一回言ってくれないか」 「二度も言うと思うなよ。おいコラ、言った端から頬を染めるな気色が悪い」 「んんっ……」  きゅっと唇を噛んで悦に入ったように頬を紅潮させ、目を閉じて満足げに頷く鷹山。その様子を見た尾坂が若干引いたように気持ち距離を置く。と言ってもソファに座っていたため体を若干斜め後ろに引くだけに収まったが。 「昔から思うのだが、なぜ貴様は私に冷たくあしらわれる度に恍惚とした顔をするんだ」 「他人事のように言わないでくれ。俺がこうなったのは貴様のせいでもあるんだぞ」 「何を訳の判らんことを……」  何を隠そうこの鷹山千晴という男、尾坂から先のような冷たい仕打ちを受ける度に悦びを覚える変た……もとい困った性癖の持ち主だったのだ。それが発現するのは今のところ、この尾坂という見目麗しい青年が相手の時だけというのがまだまだ救いだったが。 「あのな、尾坂。俺は何も貴様に他人の事を肥溜めを見るような目で睥睨しながら『この豚野郎』と罵れと言ってるわけではないんだ。いや、待て。寧ろ貴様が『豚』などという単語を口にしては駄目だ。もっと大変な事になる」 「何だと?」 「貴様が自分の出自と容姿に触れられる事を蛇蝎のごとく毛嫌いするのは重々承知しているが、その上であえて言わせてもらう。想像してみてくれ。貴様のような見目麗しい絶世の美男子が鞭を片手に軍服をかっちり着込んで高圧的な態度で『豚野郎』などという罵声を使おうものなら、その手の変態性欲者が喜び勇んで群がってくるに決まっている」 「何を言うか。その筆頭におるのが貴様だろうに」  きっぱりと指摘してやると、鷹山は何が嬉しいのか照れ臭そうににっこり笑って後頭部に手をやった。 ───相談する相手を間違えた。と、尾坂が思うのも無理はない。 「これ以上ふざけるのならもう帰らせてもらうぞ。邪魔をしたな鷹山」 「まあ待て、少しは俺の考えを聞け。さすがに“サドになれ”は言い過ぎだった。いや、適切な表現ではなかったな。すまんすまん」  テーブルの上に置いた軍帽を取ろうとした手を制し、ハハハッ!と笑って誤魔化す鷹山。そんな同期に冷たい視線向けて尾坂はスッと手を引っ込める。  この男は自分に物怖じすることなく思ったことをストレートに言える数少ない希少な人材だ。たとえ変た……いや、少々ばかし変わった性癖の持ち主だとしても。  そもそも尾坂がこの男の元に訪れたのは、八ツ橋にくるまぬ率直な意見が欲しかったためだ。と、思い出したので一応はその考えとやらを聞いてやろうと座り直した。 「貴様が目指すべきだったのはむしろ高嶺の花だった。そうだ、これだ。高嶺の花だ。高嶺の花になるんだ、尾坂」 「サドの次は高嶺の花だと?まったくもって意味がわからん。いい加減に貴様の考えを聞かせてもらおうじゃないか」  ソファに深く身を沈め、すらりと伸びた長い手足を組む。  月明かりの元で森林を静かに歩む狼のような気品のある佇まいだ。たったそれだけでも様になっており、この青年の育ちの良さが窺えて感嘆の溜め息を吐かざるをえない。本人はそこに触れられる事をこの世で最も嫌がるが、やはりあの九条院侯爵が溺愛している寵児というだけはある。指の先まで教育が行き届いていて、土台からして自分達とは違う世界を生きてきたことが手に取るように判るから。 「貴様、その軍服を仕立てたときに俺がなんと言ったか覚えているか?」 「『尾坂、貴様はどうして華があるのにそんなに野暮ったくしたがるんだ、もったいない。いいか、貴様が胡蝶蘭なら俺達はその辺に生えている雑草だ。素材からして違うんだぞ素材から。それを生かさんでどうするんだ』」 「一字一句間違いなく覚えている所が貴様らしいな」 「それはどういう意味だ」 「いや、相変わらずの記憶力だと思って」  どんなに長い訓示だろうと二回か三回聞いただけで全て覚えてしまうという驚異の記憶力を持つ同期に笑いかけ、鷹山は長年に渡ってこの同期を観察していて気付いた事を指摘してやる。 「貴様はそういう地味で野暮ったい格好をしていれば目立たずに済むと思っておるようだがな、俺に言わせればその垢抜けない格好こそが逆に目を付けられる原因になっていると思うのだが」 「は?」 「端的に言えば、貴様が愚図るテーラーを説き伏せてわざわざ野暮ったく誂えたその格好……完全に裏目に出ているぞ、尾坂」  一瞬──空気が凍った。  指摘された本人である尾坂はまるで雷に撃たれたように盛大に固まって唖然となっている。どうやら、本当に自覚が無かったらしい。鷹山はそんな彼に「あーそっかー、やっぱり気付いて無かったかー」と、生暖かい視線を向けておく。  この尾坂という青年はどんな些細な変化も見逃さないくらい観察力にも長けているというのに、妙な所で抜けている部分があった。こういうところは箱入り娘ならぬ箱入り息子というべきか。  純粋培養ここに極まれり──この男は、人に加害を働く者が被害者をどのようにして選ぶのかという条件に気付くことが未だにできていなかった。他ならぬ自分自身がすれ違い様に民間人から罵声を浴びせられる等の被害を数多く受けてきたというのに。 「あのな……衝撃を受けて固まっている所申し訳無いが、間違いなく本当のことだぞ。俺がこの帝都で数多の人間を観察して感覚的に統計を取った結果、常に憂さ晴らしのネタを探して悪意を滾らせている連中が狙うのはな………貴様程ではないが野暮ったさの極みのような地味で垢抜けない服装をしている奴ばかりなんだよ」 「なっ……」  尾坂にとっては本当に青天の霹靂だったのだろう。  なにせ今まで自分がそういった被害に遭ってきたのは、自分が一目で軍人と判る出で立ちで外を出歩いていたからだと思っていたから。  彼らが少尉任官した大正時代、そして時代が変わって昭和になった今でも軍人というのは肩身の狭い思いを強いられる職業だった。後の世で大正デモクラシーと呼ばれるようになる自由主義的・民主主義的な思想や風潮の発展に加えて、軍縮の煽りやその他様々な要因が重なり軍人というものが国民から蔑視された時代だ。年頃の若い娘がいる親達はこぞって自分の娘に対して「軍人と結婚するのだけはやめなさい」と諭し、軍服のままで街を歩けば「税金泥棒」だの「人殺し」だの言われる始末。そんな時代だった。  尾坂は当時まだ「貧乏少尉」だった訳であるし実父である九条院侯爵からの援助の申し出も「縁を切ったから」という理由で突っぱねていたため、軍服を仕立てるので精一杯。養父が任官祝いを兼ねてある程度まとまった金銭をくれたがそれでも懐が寂しくなった。所用で駐屯地の外に出なければいけない事はあったが、とてもじゃないが背広を仕立てる余裕など無かったためにたとえ国民から白い目で見られる事が判っていても軍服で外に出なければならない。唯一の救いは聯隊駐屯地内に独身寮があったことだろうか。必要以上に外に出ずに引きこもってばかりだった。砲工学校時代も軍服で通わなければならず、おまけに軍帽の下から覗く珍しい瑠璃色の瞳の事で散々な目に遭わされてきた。  昔は少し青色かかった灰色だった尾坂の瞳は年齢を重ねるごとに深みのある青色へと変化していき、成人した今では海の底を覗いたような美しい瑠璃色へと変わっている。しかしいくら綺麗であっても、この国の国民の大半は漆喰のような黒い瞳、もしくはそれより明るい茶色の瞳だ。そんな中では瑠璃色の瞳など目立たない方が無理というもの。現にくちさがない者達は灰色かかった青色の瞳を持つ──しかも軍人である──尾坂を見るなりヒソヒソと聞こえるような声音で陰口を叩いてきたし、もっと遠慮の無い子供になると親の言っている悪口を真似たのか意味さえ理解せずにこっちを指差して大声で「露助」だの「合いの子」だのと罵ってくれた。無邪気さとは時に残酷なものである。親は慌てて子供の口を塞いでいたが、周囲の人間の目線は尾坂に同情的では無く寧ろその子供に同調するようなものばかりだったので「反応したら負け」と思ってその場を足早に去ったのも一度や二度じゃない。  軍人である自分がそういった被害に遭うのも仕方がないことだと思って、尾坂は半ば諦めて反論もせずに大人しく国民からの罵声を甘受していたのだが………まさか自分がそういった被害に遭っていたのは、今の今まで目立たないようにと地味で野暮ったい田舎者臭さ丸出しな垢抜けない格好をしてなるべく気配を殺していたのが原因だったとは──という所か。 「そんな馬鹿な……」 「信じられないかもしれないが、本当の事だ。あの手の連中はモボやモガみたいに洒落た格好をして華やかに遊び回っている連中には何も言わんし手も出さん。その代わりと言わんばかりに、化粧ッけが無い大人しそうな娘さんや制服をしっかり着こんだ真面目そうな学生ばかりに狙いを定めて絡んでいたな。軍人でも俺のようなモダンボーイは無視されていて、貴様程酷い被害には会わなかったぞ」 「な……なぜ、なぜそんな………」 「そういった連中の心理など知らんし知りたくもないが、大方『こんなに地味で垢抜けない服装をしているのなら大人しくて何をしても騒ぎ立てないだろう』とでも思っておるのだろう」  鷹山は何度もしきりに頷き、目をいっぱいに開いてわなわな震える尾坂を観察する。  つい一ヶ月前まで海外留学をしていたためか、丸刈りではなく髪は長い。烏の濡羽色の髪はたっぷりと艶を蓄えて丁寧に整えられている。といっても自己流らしい。五分分けに近いが見たことがない整え方だ。それがこれまた似合っているというのだから美形とは得なものである。  華のある美貌を地味な服装でなるべく押さえ付けて、ふとした瞬間滲み出てくる生まれついての上流階級の者しか持てない清流のような存在感さえも殺しきったその姿。パッと見た瞬間は確かに地味だと思うが、それでも持って生まれた人を惹き付け魅了する才能だけは隠せない。人はそれを魔性とでも言うのだろう。尾坂の養父である尾坂隼三郎陸軍中将も何となく人を惹き付けていつの間にやら懐柔してしまう特技があったので、これは尾坂家の人々由来の才能か。血の繋がりは無いはずなんだがなぁ、と鷹山は首を傾げる。真相を知らぬ彼にとっては不思議なことの一つだった。  ともあれその魔性に華族の子息として施されてきた上流階級の紳士教育が合わされば、まさに向かうところ敵無しという奴だ。彼が本気を出せば、大抵の人間は陥落させられるだろう。  それをしないのは、単に彼があまり注目を浴びたくないからだ。どうやら義母と間にあった──出自を考えれば当たり前だが──確執が原因で、幼い頃に何か言われたのがよっぽど堪えているらしい。成人した今になってもそれを引きずっているようで、尾坂はなるべく己が目立たぬように気を使って生きてきた。そのせいで野暮ったい格好を見た者から馬鹿にされまくった挙げ句に舐められて数々の被害を受けてきたのだが。 「要するに貴様は舐められていただけだ。判ったか」 「つまり……私が軍人だからというのは、まったく関係の無いことだった………ということか?」 「ああ」 「この瞳の色が原因だったというわけでも……」 「無い。貴様が瞳の色でどやかく言われていたのは瞳の色自体がどうのこうのではなくて、ただ単に貴様がそれを隠したがっていたから攻撃しやすい要素だったと言うだけだ」 「……そんな理由で?」 「そんな理由だ」  カラカラに渇いた声で赤い唇を戦慄かせながら尾坂は鷹山に聞き返す。その通りだと肯定してやると、彼はしばらく呆然とした後に顔を手で覆ってがくりと項垂れた。 「……じゃあ、私が今まで………必死になって………この目を隠そうと努力していたのは………無駄で無意味なものだった、ということか………」  声が震えている。どうやら余程ショックだったらしい。身体的特徴なんていう自分じゃどうしようもできない部分を罵倒されていた理由が、日露戦争などでの遺恨や“合いの子”に対する偏見などが原因などでは無かった事に対してだ。一皮むいて見えた真相は、よりにもよって「攻撃しやすかったから罵倒のネタにしただけで特に理由なんて無い」とかいうそんな下らないものだった。 「……大丈夫か?」 「…………………」  静かに首を横に振る。その姿があまりにも痛々しくて思わず口をへの字に曲げてしまった。傍目から見ても完璧人間である尾坂を罵りたくても罵る要素が無いのなら、唯一本人が隠したがっているのが傍目から見ても判る身体的特徴を揶揄することしかできないだろう。それが一番手っ取り早くて相手を一番深く傷付けられる方法だから。だがそれは卑怯ものの行う手段だ。鷹山にはなぜそんな事をしてしまうのか理解できない。 「……うん、だからな。俺は貴様にサド……じゃなかった高嶺の花になれと言っておるんだ」 「…………それはもう聞いた」 「ううむ。つまり、だ。地味で野暮ったい格好をして何を言われても黙って立ち去る大人しい態度をしておるから駄目なのだから、逆に派手で洒落た格好をして肩で風を切りながら颯爽と歩いておけば良いのだ」  変な所で不器用な友人に知恵を付けてやるべく、鷹山はこんこんと自分の考えを説いてやった。 「いいか。今の貴様はな、川の畔に咲いている白百合のようなものなのだ。判るか?地味ながら綺麗な存在だろう。だがな、咲いているのは川の畔だ。ちょっとしたことで水に浚われるわ、思い付きで摘み取られてその辺に放り投げられるわで散々な目に遭いやすい。なぜなら生えているのが川の畔だからだ。つまり、人が手を伸ばせば簡単に触れられる場所にあるからそういう目に遭う」  青く澄み渡った水が流れる川辺で静かに咲いている白百合。それはそれで趣があるのだが、いかんせん人の手の内に届く範囲にあるため軽く見られがちになる。ぞんざいに扱っても構わないと思われているのが現在の尾坂の状況だ。 「だから高嶺の花になれ、尾坂。山深くの渓流で崖の上にひっそり咲く白い薔薇の花だ。滅多なことではお目にかかれない上に触れることさえ難しく、やっと手に取れると思って舐めた態度を取った無礼な輩を棘で刺してつんと上を向き咲いている白薔薇になれ」 「……頼むからどうすれば良いのか具体的に言ってくれないか。貴様の話は抽象的すぎてまったく想像できん」  マイペースな鷹山に流されて、なんとか立ち直ったのか尾坂が掠れた声で呟く。 「まずはその服装だ。ここでようやっと貴様が俺を頼って相談しにきた内容の本題に入れるな。いや、話が脱線して申し訳がない」 「ああ、そうだな。貴様がサドになれだの高嶺の花になれだの言ってせいでつい忘れてしまったが、いい加減に本題に入ろう」  そもそも尾坂が本日鷹山を訪ねたのは「どうやったら自分の美貌が引き立つような洒落た格好ができるのか」という相談をするためだ。今まで誰に何を言われようが頑なに野暮ったい格好をし続けていた尾坂の唐突な心変わりに喜んで、うっかり気が昂ってしまったせいで鷹山はついつい話を脱線させてしまった。そろそろ本題に戻らねばならんと表情をキリッとさせる。 「とりあえず立ってくれ」  一言。それだけ言うだけで何をするのか判らずとも尾坂はスッと立ち上がって鷹山の方に歩み寄る。鷹山の方も立ち上がって、二人は正面から向かい合った。  鷹山の身長は郷里の大阪でも高い方だったのだが、上には上がいるというやつだろうか。立ち上がって並ぶと自分の頭のちょうど天辺に尾坂の視線がある。五尺六寸越えという長身もあってか尾坂はとにかく顔だけでなく体型も良い。胴が短く脚が長いため腰の位置が高いという日本人離れした美しい体型を持っていた。 (どういう心境の変化なのかは知らんがな……まあいいだろう。友として、貴様の自我が少し成長したことくらい祝うさ)  目立つな──それはきっと、おそらく尾坂が戸籍上の母親から言われ続けてきた呪いだったのだろう。その呪いに雁字搦めに縛られて、足を踏み出せなかった友人の成長を祝福しようじゃないか。 そんな事を考えている鷹山の手には尾坂の帽子が握られていた。 「まずはな、軍帽を目深に被らず瞳を見せろ。それだけでも印象が変わる。ああ、表情はそのままでいい」 「……表情は変えなくても良いのか?貴様のようにご婦人方に対してにこやかに笑いかけたりは………」 「いいや、駄目だ。寧ろ貴様は下手に愛想良く振る舞わずにそのまま行った方がいい。いつもようにこの世の全てを斜に見るような冷笑的な態度を崩すな。あくまで自然体で。いいな」 「私は貴様からどういう目で見られていたのだ……」  綺麗に揃った柳眉を八の字にしながら、尾坂は解せないとばかりに言い放つ。それに苦笑しながら鷹山は尾坂に軍帽を被せてやった。当然、普段の彼がやっているように目深に被らせるのではなく、瞳の色が綺麗に写るように鍔を少し上げて。 「その表情のままで肩で風を切るフウに颯爽と歩いていけ。貴様が主役の舞台に上がっていると思うんだ」 「ああ、判った」 「あとそれから。それでもし陰口を叩かれたり罵声を浴びせられたりした場合についてだが……」  帽子を被らせたせいで乱れた髪の毛を整えながら、鷹山は笑いかける。 ───貴様の魅力を判っていないような見る目の無い連中のことを、覚えておく必要など無いと。 「ほんの少し立ち止まってそいつの方を一瞥した後、鼻で笑ってお澄まししながら堂々と立ち去れ。それで相手が逆上したら、容赦の無い皮肉で捩じ伏せて黙らせろ。判ったな」 「ん……」  それでも少し躊躇うような表情を見せる尾坂の背をぐぃっと押してやるべく、鷹山は今まで言いたくても言わせてもらえなかった事を口に出す。 「……ずっと前から言いたかったんだがな。尾坂、何をやろうとどんな格好をしてようと文句を言う輩は必ずいるんだ。他人に因縁を吹っ掛けて憂さ晴らしをしようとする連中はな。そんな連中に付き合ってやって、貴様がわざわざ自分を隠したり曲げたりする必要など無いんだぞ。と、俺は思っている」 「…………」 「もう、自分の好きにやれば良いだろう?何をやっても非難されるのなら、貴様の気が少しでも晴れる方を選択して堂々としておけばいい。どっちにしたって嫌な思いをするのなら、自分を押し込めて我慢するより自分のやりたいようにやった方が得だろう?」  鷹山の言葉にハッと我に返り、尾坂はきゅっと唇を引き締める。 ──ああ、そうだ。どうせ何をやっても白い目で見られるのなら、いっそ好きなことを好きなだけやってやろうじゃないか。 「むう……だが、私は口下手だからな………急に皮肉を思い付けるかと言われると……」 「大丈夫、貴様には充分素質がある。俺に対するあの辛辣な言動こそがその証明だ。良いな?」 「あ……うん」  これでもかと心当たりがあったためか、特に反論する要素が見当たらずに内心複雑ながらも生返事をしておく。 「ただし、人には紳士的に接するように。そして接する時には淡白なやり取りを心がけろ。物腰柔らかだが“まるで興味などございません”とばかりの淡々とした冷たい態度を崩さないように。いいな」 「難しい注文を付けよってからに……」  紳士の振る舞いなどその辺りについては無問題だ。幼少の頃に英国紳士の立ち振舞いを本場の英国人から叩き込まれていたし、陸幼の時の生徒鑑にもたっぷり仕込まれた。ただ、冷たい淡白な態度を崩さないようにすれば泣かれてしまうのでは、という心配があった。男はともかく女子供と話をするのは、何でもそつなくこなす尾坂にとって唯一の苦手分野だったから。  いや、そもそも尾坂自身があまり女性と関わったことが無いというのもひとつの要因だろう。  実は尾坂には女性に対する苦手意識があった。それを知っている者は今のところ養父である尾坂隼三郎中将と鷹山を含めた数名の陸軍関係者のみだけだったが。自覚をしたのは少尉任官時のこと。ある時尾坂は自分が女性に苦手意識を抱いていると自覚して、それ以降はなるべく女性を避けて生活してきた。  それ以前に尾坂は幼少期は家の中に閉じ込められていて同年代の人間と関わらない生活を送っており、一年間だけ中学に通ったことを皮切りに進学した陸幼陸士でも女性と関わるような機会は一切無かった。  彼が唯一深い関わりを持った女性は九条院家の長女、つまり腹違いの妹だけだ。女子供に対する免疫が無くて当然だろう。 「大丈夫、大丈夫!何事も成せばなるんだ。妹に接するような気持ちでやれ!」 「妹……」  中学の時に家を飛び出して尾坂家の養子になって以降、何年も直接会っていない妹の事を思い出して少し伏せ目がちになる。彼女と最後に直接会って言葉を交わしたのは、陸士時代のたった一度限りだ。九条院家に戻ればもう二度と外に出られない気がして、あれ以降実家には帰っていない。兄妹の結婚式の時でさえ軍務が忙しいだの海外留学中だの理由を付けて出席せずに祝電と祝儀を贈るだけだった。  さすがに皇室の行事があったときには、陛下の藩屏たる華族の責務として出席せざるを得なかったが。それでも式典が終われば九条院家の者とは一言も会話を交わさず早々立ち去っていた。  九条院侯爵が溺愛するあまりに半分軟禁状態で育ててきた尾坂を養子に出ることを許可したのは、華族から除籍しないことが条件だったため嫌でもその類いの式典には出席しなければいけない。侯爵に自分を連れ戻す口実を与えないためにも。 「あー……うん、妹の話はまずかったか」 「いや………もう随分長い間会っていなかったから、どういう風に接していたのか思い出していただけだ」 「そうか」  天真爛漫で好奇心旺盛。お転婆を絵に描いたように活発で、幾度も使用人の手を焼いていた跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘。かと思いきや年頃の娘らしい遊びやお洒落も楽しみ、身内の贔屓目無しに見ても可愛らしい少女だった異母妹。兄妹たちどころか実家との繋がりさえ絶ち切っている尾坂だったが、唯一彼女とだけは年賀状などのやり取りが今でも続いていた。  そんな彼女は今、結婚して二児の母になっているそうだ。  ちょうど尾坂が少尉任官の年に親交のある伯爵家に嫁いだが、広島の第五聯隊での職務が忙しいという理由で結婚式には出席しなかった。祝電と祝儀は贈っておいたが。  ……実は結婚するときに会わなかったことを少しだけ後悔している。彼女は次兄と共に尾坂にとっては恩人だから。 ──自分をあの暗く鬱屈した離れ座敷の外に連れ出してくれた。世界はこんなにも広いんだということを教えてくれた人だから。 「……ところでもうすぐ昼休憩が終わりそうなんだが」 「ん?あ、本当だ」  これ以上居座ると不都合ではないかという問いかけも兼ねて時計を指差す。腕時計の針はもうそろそろ課業時間が再開されることを示していた。少しだけ考える素振りをした鷹山だったが、何か考えが浮かんだのかポンポンと尾坂の肩を軽く叩く。 「そこでちょっと待ってろ。座ってていいから」 「判った」  何を思ったのか鷹山は小走りになって部屋を後にした。  ポツンと一人残された尾坂は暫しの間鷹山が去っていった扉を眺めていたが、やがて肩を竦めたかと思えばコツコツと靴音を響かせ歩いて窓辺に近付く。 「…………」  被らされた軍帽を脱いでじっと窓の外を見下ろすと、数名の将校がたむろしているのが見えた。全員、軍服がまだ新しいことから見ると昨年陸士を卒業したばかりの“新品”なのだろう。随分と素直な笑顔でにこにこ機嫌良さそうに駄弁っている。 (……私も、ああいう風に素直で可愛げがあったら息苦しい思いをしなくて済んだのだろうか?)  何の屈託も無く職務に殉ずることができ、自分じゃどうしようもできない理由で他人から石を投げられない生活に憧れなかったわけではない。物事を変に曲げずに素直に受け止めて、上手に飲み干せるようになれたらと何度思ったか判らない。  だが、プライドの高さからそうすることがどうしても憚られて。今さら自分を変えたところで、過去の自分を救えるはずがないと諦めていた。 (もう、いい。別にいいんだ。プライドが高くて可愛げがなくて、この世を斜に見るように冷笑的で血も涙も無い冷血漢で………それがどうした?それが私だ。どうやっても変えられない、それが私という人間なんだよ………)  もう止めた。自分を殺し続けるのは。もう何もかも馬鹿馬鹿しくなった。こうなったら自棄だ。好き勝手にやってやる。あの男だって、私のことなんて忘れて好き勝手にやっていたじゃないか。 「………」  数日前に自身が見ている目の前で行われたある海軍士官達のやり取りを思い返して、燻っていた憎しみの炎が勢いを取り戻して鎌首をもたげかける。まさにその時だった。 「………?」  不意に眼下の将校の内の一人が顔を上げる。尾坂の不躾な視線を感じたのだろうか。あどけなさを残しつつもさっぱりと整った顔立ちに、きょとんとした表情を乗せる若き少尉だ。おそらく歩兵第三聯隊の聯隊旗手だろうか。パッと華がある、それでいて利発そうな顔だった。 (…………愛想良く、か)  鷹山はやめておけと言ったが、つい今しがた妹のことが話題に上がったせいか好奇心に駆られた。 (こういう感じか?)  ゆっくりと口元を緩めて軽く弧を描き、答礼の仕草をしてやる。すると階下にいる新品は見る間に顔を真っ赤にさせたかと思えばバネ仕掛けの人形のように飛び上がって敬礼した。彼と会話をしていた将校達もつられて次々こちらを見ながら敬礼していく。  その様子が少し愉快だったのか、尾坂はふっとひとつ笑うように小さな吐息を溢して窓辺を後にした。  ソファにでも戻って大人しく座っておくかとぼんやり考えていたその時、遠くの方からバタバタと荒い足音が響き…… “バンッ!!” 「──よし、尾坂!!今から貴様の軍服を仕立てに行くぞ!!」  小脇に自分の帽子をかかえつつ扉を開け放って現れた鷹山が、頬を上気させつつ目を爛々と輝かせながらそんなことを言い放った。余りにも唐突な事だったので尾坂は珍しくポカンと口を開けたまま鷹山の方を見て固まる。 「…………………………………………………………………………………は?」 「なんだ、既視感のある反応だなぁ」  たっぷり間を取ってもう一度聞き返すと、鷹山は朗らかに笑いながら返してきた。まるで先程の新品少尉たちのような無邪気なものだ。特別に整った顔立ちという訳ではないが糸目を気にしてか愛想の良い笑顔でいることが多い鷹山は、いつも以上に満面の笑みを浮かべながらツカツカと歩み寄ってがしりと腕を掴んでくる。 「今からテーラーの所に行くぞ、尾坂!」 「本当に唐突だな、貴様は。というか午後からの課業はどうした」 「ああ、それなんだが。聯隊長に駄目元で頼んでみたらあっさり許可が出た」 「は?」  あまりに突然の出来事に唖然となった。この男、今なんと言った? 「いやぁ、何でも頼んでみるものだな。以前、貴様が軍服を仕立てたテーラーに行くと聯隊長に言ってみたらな。聯隊長がちょうどその辺りに用事があったらしく、使いを頼まれる代わりに午後からの課業は休んで良しということになったんだ」 「なんだそれは」  この男といい聯隊長といい、歩三は色々と大丈夫なのか心配になってしまった。というか、あの短時間で聯隊長をも丸め込んだこの男の詐欺師も真っ青な手腕が気になるのだが。 「そういう訳だから思い立ったが吉日、さっそく行こうじゃ無いか!兵は拙速を尊ぶと良く言うだろ!」 「我々は兵ではなく将校なのだが……」  ぶつくさ文句を言いつつも、自分のために態々時間を割いてくれた友人に申し訳ないと思って素直に付いていく。鷹山は何が楽しいのか今にも小躍りしそうな足取りで聯隊本部を後にした。

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