往きゆきてカサンドラ作者: 古池十和
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第1話 大我、七歳
――僕達は可哀想な子供だった。傷を舐めあうぐらい許されたっていいじゃないか。
――俺達は孤独な子供だった。お互いの体温を頼りにするしかなかったんだ。
◇ 大我 、七歳。
百合の家の玄関にはいつも色とりどりの花が飾られていた。名前の通り百合の花が一番好きなのだけれど香りが強いからあまり飾らないのよ、と彼女は言った。
だが、花になど目もくれず、今日のおやつはなあにと聞きながら、ランドセルを放り投げ、脱いだ靴もそのままに駆け出す幼い僕。
それでも百合は決して怒ったりしない。優しい声で
「今日はガトーフリュイよ」
と微笑む。
ご挨拶は。靴を揃えなさい。手は洗ったの。
そんなことを口うるさく言う者はここにはいない。ましてや食事の際にスプーンを落としたといった些細な失態、あるいは単なる不機嫌を理由にテニスラケットで尻を叩かれることも、胸や背に火のついた煙草を押し付けられることもなかった。そんな地獄のような自宅とは逆に、百合の家にいる時の僕は王様で、何をしても許された。脱ぎ散らかした靴は使用人が揃えるし、なんなら帰るまでに磨き上げてある。手なんか洗わなくたって必要とあらばフィンガーボールでもおしぼりでも出てくる。挨拶? 挨拶ぐらいは僕もする。にっこり笑って「こんにちは」と言えば、百合の家の使用人も出入りする客たちもみな口を揃えて「本当に可愛い、天使のよう」と言う。
可愛いと評されるその顔は、実母の蘭子にはあまり似ていない。蘭子は感情的に暴力を振るっているようでいて、用心深い面もあり、他人の目にさらされるところに傷を残すことはしなかったから、天使のように微笑む少年の服の下が青痣や切傷や火傷痕だらけであることは誰にも気づかれなかった。
「ねえ、蘭子さんがまた妊娠したって本当?」
百合は新色のネイルの試し塗りをしながら聞いてきた。
「ニンシンってママのお腹の赤ちゃんのこと?」
「そうよ」
「本当だよ。僕、もうすぐお兄ちゃんになるんだよ」
「男? 女?」
「知らない。まだお腹の中だもん」
百合はフフッと笑った。お腹の中でも性別が分かることを知らない僕の無知がおかしかったのだろう。そう気づいたのはずっと後のことだけれど、その時でも小馬鹿にされているらしいことは察せられた。
「でも、弟だよ」
僕がそう言うと、百合は指先から僕へと視線を動かした。
「分かるの?」
「分かるよ。なんかピンと来るんだ。お腹に赤ちゃんがいるのも僕が最初に気がついたんだよ」
「あらまあ、すごいのね」
皮肉めいた口調で百合が言うのが気に食わず、僕は言った。
「百合のお腹には赤ちゃんいないよ」
常に微笑みを絶やさない百合の表情が、一瞬だけ凍り付く。
「要らないわ、子供なんて大嫌い」
忌々しそうにそう言い捨てると、百合は再びネイルに熱中した。じゃあ僕は? 僕のことも嫌いなの? その問いかけはできなかった。母親から暴力を振るわれ、父親にはほぼ無視されていた僕にとって、上辺だけでも可愛がってくれる百合は、たった七歳の僕がなんとか生き抜くための最後の砦であり、失うわけにはいかなかった。
その時、玄関から物音がしたかと思うと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ああ、大我くん、来てたのか」
百合の夫である鳳城 だった。彼は僕の父親に長年仕えている秘書でもあった。
「こんな時間にどうしたの」
大して興味もなさそうに百合が聞く。
「着替えを取りに来ただけだ。また何日か留守にする」
「言ってくれたら、届けに向かわせたのに」
「俺じゃないと正しく選べない」
「はいはい、桝谷 の着替えね、ご苦労様」
桝谷圭史 。僕の父親の名だ。妻である蘭子よりも長い時間を鳳城と過ごす父は、スーツや靴選びも鳳城に任せており、ついには私物までもほとんどすべてを自宅から鳳城の住まいに移して管理させていた。
鳳城は自室から父のスーツを持ってくると、再びリビングを通り抜けて玄関に向かおうとして立ち止まり、床に這いつくばるようにして絵を描いていた僕を見降ろした。
「お母さんには専属のナースをつけてあるから、心配しなくていい」
彼はそれだけ言い、来た時同様に慌ただしく出て行った。
――心配? ママを?
僕は呆気にとられた。お腹が膨れるにつれ、蘭子の僕に対する直接的な暴力は減っていて、僕はほんの少しだけホッとしていたのだ。このまま膨らみ続けて弾けてしまえばいいとさえ思っていた。でも、その一方で、赤ちゃんが生まれたら、ママが変わってくれるかもしれないという期待もしていた。赤ちゃんの可愛さにほだされて性格が優しくなってくれたらいい。赤ちゃんの世話に忙しくなって僕への暴力がもっと減るならそれでもいい。やっぱり赤ちゃんのことも嫌いになったとしても、その分僕に矛先が向かわなくなるなら、それでもよかった。
そんな僕が母親の心配などするわけがない。
それに気づかない鳳城もどうかしていた。外面はともかく、身内扱いの鳳城の前では平気で虐待を行っていた蘭子だ。あれがまともな母親なら、子供の僕がこんな風に他人の家に入り浸るはずがない。大人なのに、どうしてあの母親の異常性に気がつかないのか。
「蘭子さんなら、地球上にたった一人生き残っても大丈夫なのにね」
鳳城が出て行ったドアを一瞥して、百合が言った。百合は誰よりも蘭子のことを理解していた。
「あの人は桝谷がいなかったらすぐ死んじゃいそうだけど」
百合は続けてそう呟いた。「あの人」が鳳城のことを指しているなら、逆じゃないだろうか、と僕は思った。鳳城に何もかも頼っているのは父のほうだ。
百合にしてみれば、自分の夫が業務をはるかに超えた私生活の面倒まで見させられている状況はおもしろくないだろう。だから夫の上司を「桝谷」などと呼び捨てにもするのだろう。僕は随分長いことそう思い込んでいた。
――十四歳の、あの日までは。
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