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第4話 芽生えた想い

日が落ちた頃、地下鉄に乗って朝比奈は帰宅した。 座席に座ると、ドラム型のバッグを膝に乗せた。バッグの中には、今日使った筆やボウル、毛氈(もうせん)などが入っている。毛氈とは紙の下に敷く織物で、書道では欠かせない。今日は紙が大きかったので、たくさんの毛氈をテープでつないだ。 個展は明日もある。駐車場誘導員のバイトのあとで行くつもりだ。 書の依頼もそれなりにあるが収入は不安定だ。道具代や書道展の出品料を捻出するために、朝比奈は週に四回バイトをしている。 もっと働けば、将来開く書道塾の資金がすぐに貯まるだろう。しかし、書を学ぶ時間は極力減らしたくない。 目を閉じて、頭の中で数字をはじく。 今日パフォーマンスで書いた書は、ぜひとも表装したい。 書道作品は紙に書かれているから耐久性がない。補強と装飾のために、作品を厚く加工して上下に紙を張る。日本画のような掛け軸になる。この裏打ちと呼ばれる作業を、表具屋に頼まなければならない。 貯金からいくら出せるか計算していると、どうしても作品につける紙のことを考えてしまう。当然、質がよいほど高い。さまざまな色と柄の紙が浮かんでくる。 金箔つきの紙が頭をちらついたとき、ふと町田の顔が浮かんできた。 日にかざすときらめく紙のように眩しい男だった。 箔が施された紙は砂の粒のように輝く。その光は小粒ながらも目を見張るほど美しい。ただし、見る角度によっては気づかないこともある。 町田も輝きを秘めている。ひけらかすことはないのに光が滲み出ている。魅惑的な光だった。 喫茶室での町田の言葉を反芻する。 『堂々としていて、見ているだけで晴れやかな気持ちになった』 できあがった作品をあれこれ言われるのは慣れている。 公募の書道展ではいつも合評が行われる。 書道家たちが互いの作品を評価する。 たいてい朝比奈が最年少で他は皺だらけの書家ばかりだ。 字が荒い。配置が単純。見ていて暑苦しい。 年寄り連中は日頃の鬱憤をぶつけるかのように厳しく批評する。 一身に言葉を受けていると、自分が包丁で切り刻まれている肉の塊のように思えてくる。十代の頃は合評の度に胃が重くなった。今では書道家としての通過儀礼だと思っている。 書いているときの朝比奈について述べたのは、町田が初めてだった。 寝顔を見られたようで、なんだかくすぐったい。 あのときは、何も返さずに笑みを浮かべた。 心の中で否定したけれど、ただ照れくさかっただけなのかもしれない。 町田に見つめられると背骨から己が焦げていく感じになる。 恋愛ごとに慣れていないから、今の気持ちが恋心なのか単なる好感なのかよくわからない。 わからないからこそ、自然と沸き起こった想いに戸惑った。 ――この感情は、悪くない。 ろうそくの明かりのように、わずかな風にもゆらめくはかない気持ちだ。 燈ったばかりの想いは、ふとしたきっかけで消えてしまうだろう。 町田との仕事が終われば忘れるかもしれない。もしかしたら、町田の指示に従ううちに逆に嫌悪感を抱くかもしれない。 せっかく芽吹いた心を失いたくなかった。町田とは仕事の上でのつきあいだ。一方的に抱いた気持ちだから、この想いが炎のように噴き上がることはないだろう。 それでも、温めていきたい。 町田を思うだけで心地よくなる。 今日は、蒸し暑い一日だった。降りしきる雨のせいで熱気も湿度も増した。しかし鬱陶しさはない。 町田のことを思い出すと、持て余した躯の火照りが消え失せる。眠りたくなるような穏やかな温もりだけが心に残る。 ひとりの人に出会っただけで一日が変わるなんて、知らなかった。

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