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第5話 大福ちゃんの思い出
数十分歩いて自宅に着いた。
作品の保管場所と乾かすスペースが欲しくて、今年の春から一軒家を借りた。地下鉄駅から離れているし築五十年なので、家賃は相場より低い。
靴を脱ぐとバッグを玄関に置いた。
バッグから、イベントで使ったボウルと筆を出し、台所へ持っていった。こびりついた墨が取れやすいようにボウルに水を張る。ボウルの水に筆をつけた。
奥の和室へ行き、押し入れからダンボール箱を引っ張り出す。紐で括ってあるテキストの束を取った。
小学生の頃、毎日開いていた書道の手本だ。あぐらをかいて手本をめくった。
最後のページに佳作紹介というコーナーがある。
そこに載っている、幼い町田が書いた書を眺めた。
伸びやかで無理な力は決して入っていない。悠然とした字だ。
何冊かテキストを見ていたら、写真つきの記事が目に入った。
夏に開かれた北海道書道コンクールの写真だ。二十人ばかりの少年少女が、小さな盾を持って写っている。
列の端に、小学校一年生の朝比奈がいる。
この頃の朝比奈は、色白でふっくらとしていた。同じ書道塾の子供たちから、『大福ちゃん』と呼ばれていた。
写真に写る朝比奈は、撮影者に何か恨みでも持つかのような鋭い目をしている。どうしてこんな顔をしているのか覚えている。
―――
写真撮影の前に、生徒たちは書を披露することになった。
生徒は各学年で三人ずついた。特別賞三席で最も年下の朝比奈が一番初めに書くことになった。
本当は書きたくなかった。でも自分が書かなければ始まらない。
周囲の視線、特に大人の目が気になった。他の書道塾の先生、審査員、保護者たち。彼らは朝比奈を厳しい目で見ている。
もし失敗したら、受賞作は本当におまえの作品なのかと疑われるかもしれない。
気負いすぎて、最初の一画が書けない。正座して筆を持ったまま、朝比奈は動かなかった。
誰かの声が聞こえた。
「僕といっしょに書こう?」
後ろからそっと抱きしめられた。
振り向くと、知らない子供が微笑んでいる。磨かれた石のように艶やかな瞳をしている少年だった。
「ふたりでやれば怖くないよ?」
「うん」
涙声で頷いた。早く終わらせたくて仕方なかった。
少年は朝比奈の右手に手をかさねる。筆に墨をつけると、少年は一気に書く。
力強い。躯を持っていかれてしまう。そう思ったときには、書はできあがっていた。
ふたりで書いたのに、自然な筆運びの作品になった。
「ほら。大丈夫だっただろ?」
あっという間の出来事で、朝比奈は頷くことしかできなかった。そのあと、他の子供が次々と書いた。
そのあいだも、朝比奈はずっと少年を見つめていた。
「次は、特別賞一席小学三年、町田秀介くん」
「はい」
スタッフの声に、少年が返事をする。
「まちだしゅうすけ。まちだしゅうすけ……」
覚えたばかりの名前を、朝比奈は何度もつぶやいた。
躯全体を使って町田は書を書いた。
――自分と同じ子供なのに、どうして、まちだは思い切り躯を動かせるんだろう?
――もっとがんばって、まちだのように書きたい。いまのままではいたくない。
写真に写る朝比奈は決意を心に秘めていた。
―――
いつだって理想は町田だった。
心の流れるままに表現したい。町田のように、筆を己の指先のように操りたかった。
写真の中央に町田が写っている。こうして見ると面影がある。
静けさを湛えた瞳はあの頃と変わっていない。
幼すぎたから、町田がどれほどすごいことをしたのか、あの頃の朝比奈にはわからなかった。全くの他人に声をかけることの難しさは、大人になるにつれわかるようになった。
助けてくれた町田の期待に応えたい。
あのときの恩を、いま、返す。
「素直な気持ちで挑んでほしい」と町田は言っていた。それならば、書くことは決まっている。
町田のことを書こう。
幼いときに助けてくれた感謝の気持ち、あこがれと悔しさを抱きながら書きつづけたこと、そして再会したときの想い、すべて書きたい。
写真に写っている町田の右手を、親指で撫でた。町田の手の感触はいまも覚えている。
今日、喫茶室で町田に手を掴まれた。突然のことに驚いてしまって、温もりを味わうことができなかった。
もう一度、手をかさねたい。町田の手を強く握ってみたい。
きっと、あの頃のようにあたたかいだろう。
町田との再会は、運がよかったからできた。自分の人生に強烈な印象を与えてくれたとしても、一度きりの出会いだった人はたくさんいる。
きっと、運命とか宿命とか、確かなつながりではない。偶然出会い、偶然再会した。ただそれだけだ。
この幸運を生かしたい。
親しくなれば、また笑顔が見られる。
飲み仲間よりも本音でつきあえて、親友よりも心が触れあえる関係になりたい。
欲張りだなと思い、朝比奈は笑みを浮かべた。
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