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第6話 心からの本音
海の日を再来週に控えた土曜日の夜。朝比奈は町田を自宅に呼んだ。
「……町田さん、暑くないですか」
夏日なのに、町田はブラックスーツを着ている。いくら日が落ちたといっても、まだ気温も湿度も高いのに。
朝比奈は町田が来る直前まで、タンクトップにハーフパンツだった。さすがにだらしないので、半袖シャツとジーンズに着替えた。
部屋に招き入れたあと、上着を脱ぐように促したのに町田は首を振った。
「僕は、上着を着ていないとだめなんだ」
仕事相手だから服装は崩さないという意味なのか。
ここ数日、毎日のように町田に会っている。たくさん打ち合わせをしたいと言い出したのは朝比奈だ。単なる口実だというのに、町田はいつでも応じてくれた。しかし、町田が上着を脱いだことは一度もない。
テーブルの前に座った町田に、麦茶を出した。口をつける町田を見ながら、朝比奈はため息をついた。
「なんで今日もグレイのシャツなんですか。色白の町田さんは絶対、白が似合うのに」
「きみはいつもそう言うね」
「はい。俺が脱がせて着せてやりたいです」
「うわあ、まじめな顔で危ない発言をしたな」
町田は笑い声を上げた。
何回も会うようになって町田はよく笑うようになった。笑顔を見たいから、朝比奈はいつも冗談を言っている。
――反応はいいけどまだ距離があるな。
そう思いながら、町田の笑顔を見つめた。
「今日、ポスターが刷り上ったんだ」
町田は持ってきた筒状のケースからA3判のポスターを取り出した。
水色のグラデーションをバックに、朝比奈が立っている。黒いタンクトップにジーンズという格好だ。
「ほら、かっこよく写っている」
写真の中の朝比奈は、唇をきつく結び、鋭い目をしている。
確かに表情がいい。燃え上がる闘志が写真に表れている。書道雑誌に載った写真よりもずっと好きだ。
ポスター撮影のときは町田も同行した。
『さあ書道をはじめるぞ、とイメージして』
町田の指示はそれだけだった。たったひとことで表情がよくなった。
「ええ、実物よりもよく写っています」
「実物がいいからよく写ったんだろ?」
何て返したらいいかわからない。
ここ数日つきあってわかった。
町田はお世辞を言わない。心からの本音で相手を気持ちよくさせる。
町田と話していると自分が浄化されたような気分になっていく。腹の中に貯めている毒が中和されていくように感じる。
壁の振り子時計が鳴った。時刻は七時を知らせている。
話し込んでいたら町田の帰りが遅れる。朝比奈は立ち上がった。
「町田さん、書を見てくれませんか」
今日はイベント当日に書く作品の相談がしたくて、町田を家に招いた。
「そうだな、行こうか」
町田が正座したまま、ポスターを丸めた。朝日奈は気づいた。
町田の首筋に汗が光っている。歩いて暑かったのだろう。町田がポスターをしまっている間に洗面所へ行き、タオルを取った。
「ほら、風邪を引きますよ」
「ありがとう」
タオルを差し出すと、町田は汗を押さえつけるようにして拭った。しゃがんで町田の顔を覗き込む。
いつもより元気がないような気がする。シャツどころか上着も汗で湿っているのかもしれない。
「やっぱり上着だけでも脱いだらどうですか」
町田は目を見開き、大きく首を振った。
「いや、いい! それよりも書を見せてくれ」
タオルをたたむと町田は立ち上がった。別に裸になれとは言っていない。どうして驚くのか、朝比奈にはわからなかった。
ふすまの向こうにある和室に向かった。
一歩、足を踏み入れると、町田は深呼吸をした。
「ああ、書家の匂いがする」
墨には膠 という物質が含まれる。主な成分は、生き物の骨や腱などから抽出したゼラチンだ。だからなのか、墨を毎日磨ると、獣の汗のようなすえた匂いが部屋に染みつく。
「俺からも匂っていますよ、きっと」
「どれどれ」
突然、町田が朝比奈の首筋に顔を寄せる。そんなこと、全く期待していなかった。
あまりにも近づきすぎるから、町田の鼻先が朝比奈の肌につく。
「本当だ。朝比奈くんは立派な書道家だな」
「……う」
間近にある町田の顔を見て、よからぬ想像をしてしまう。汗が引かないのか、町田の顔は赤い。瞳も潤んでいるような気がする。
まるで情事のあとのように見えた。
――何を考えているんだ、俺は。
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