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第13話 僕はこの字に惹かれた

筆を持ったまま町田を抱きしめる。 「町田さん! 俺、自分の心が書けました……やっと、素直になれました!」 湧き上がってくる思いは暗いものばかりではなかった。ひたむきに人を想う心が、自分の中にも眠っていた。 町田に出会わなければ、ずっと気づかずにいただろう。 きっと、書道家としてここから始まっていく。今まで自分を知らずに書いてきた。 これからは、抱えているたくさんの思いを書いていける。もどかしい愛情も、せつないあこがれも書きたい。 町田はやさしく朝比奈の頭を叩いた。がんばった子供を誉める母親のようだった。 「最初から素直に書いていただろ? 見てみろ」 朝比奈は町田を離すと、自分の書を見つめた。 よく伸び、心の流れが表れている。しかし、軽やかでいて重い。ところどころのかすれに激情が滲み出ている。 「元気があって強くてまっすぐ。きみそのものだ。僕はこの字に惹かれた」 抱き寄せられ、背中を叩かれた。 「よくやった」 それだけを言うと、町田はうつむいてしまった。 頬が赤い。もしかしてまた暑さでやられたのか。 朝比奈は町田の顔を覗き込んだ。町田は首を振ると、朝比奈の肩を押す。 込み上げてくるものを堪えているような顔になっている。 「町田さん?」 「言葉が出てこない……困るな……これ以上、何も言えない……」 「大丈夫ですよ。俺はちゃんと……」 わかってる、と言おうとしたとき、観客が大きな声で朝比奈を呼んだ。 「友永ちゃん、こっち向いて!」 「笑って、友永ちゃん。ほら、お兄さんも!」 女性たちが身を乗り出して、ふたりを撮る。雲ひとつない晴れの日だというのに、なぜか彼女たちはフラッシュを使って撮影している。小さな光の瞬きが止むことはない。 光に包まれながら、朝比奈と町田は笑った。 ――― イベントが終わり控え室を出ると、夕方になっていた。 空には燃えるような夕暮れが広がっている。スタッフとの打ち上げがあったけれど、朝比奈と町田は断った。 歩こうとしたら町田が手を差し出してくる。 「ほら。僕と手をかさねたいんだろ」 「はい」 町田の細い手を、しっかりと掴んだ。 人通りのない道に入ったら手を握ろうと考えていた。早く触れたかったが、人目を気にしていた。 歩きながら、朝比奈は周りを見た。 駅には買い物帰りの人々がたくさんいる。 手をつないでいる男たちを変に思ったのだろう。数人が朝比奈たちを見ている。朝比奈と目が合うと気まずそうに視線を逸らす。   町田も気づいたようだ。 「気になるか」 「ええ、少し」 「きみは恥ずかしがり屋だな」 息が零れる音が、耳元で聞こえた。 町田を見ると、小さく笑みを浮かべている。せせら笑っているようではないので朝比奈は安堵した。 ふと、町田の笑みが消えた。 うつむいているなと思っていたら、町田の手から力が抜けていった。 朝比奈は手に力を込めた。 一瞬、町田が手を離すかと思った。朝比奈から逃れ、どこかへ駆け出していくのではないか。 そう思った途端、心の端に冷たい風が吹き込んだように感じた。 町田は、他人だ。 朝比奈がどれだけ思っても、町田の心が冷めればふたりの関係は壊れていく。もしかしたら、ふたりの心が寄り添っていられるのは稀有なことなのかもしれない。 町田はずっと傍にいる。そんなのは、ただの思い込みだった。 町田をつなぎとめられる何かがほしい。 もし町田が女なら、とっくに指輪を送っている。身篭るまで抱きつづけただろう。 しかし、男同士ならあらゆる行為をためらってしまう。男と男なら、指輪はただのプレゼントに過ぎない。 抱くことは、できる。子供はできないけれど、たぶん愉しいだろう。 「町田さん」 更に、手に力を込める。町田の手がつぶれそうになるくらい強く握った。 町田を失いたくない。町田とは二度出会った。 三度目の偶然は来ないだろう。いるかどうかわからない神さまに願うつもりはない。 与えられた機会をしっかりと掴めばいい。 「俺、もう離しません」 「僕も離すつもりはない」 はっきりと、町田は言った。 ただ手を強く握っただけなのに、とてもうれしそうな顔をしている。その笑顔を見て思った。 もし躯をかさねたら、町田はもっといい顔をするだろう。 どの男も知らない顔を、朝比奈だけに見せてくれるはずだ。 「町田さん。今夜は俺の家に泊まってください」 「ああ、泊まるよ」 ふたりは足早に歩いた。人々をかわし歩調を速めていく。 町田の手は汗で湿っていた。 「僕の手、汗まみれだろ?」 「ええ、今日は暑かったですか」 笑いながら、町田は首を振った。うっすらと目元が赤い。 「イベントのあいだ、きみに抱かれることを想像していた。僕は変態だ」 「うれしいですよ。それだけ俺を求めているんだから」 行き交う人は皆、ふたりを見た。 ふたりは手を離さなかった。見られているのはわかっている。 「みんな、俺たちを見ていますね」 「ああ。どう思われたっていいさ」 町田は楽しそうな笑みを浮かべている。 「きみとなら、笑い物になっても構わない」 強く手を握ってくる。朝比奈が手を離すと思ったのだろうか。 やっと気づいた。 人が自分をどう思っているか、朝比奈は常に考えていた。そんなこと意識する必要はなかった。 大切な人が自分を想っている。 それだけで、生きていける。

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