17 / 34
第17話 いつかちゃんとできる日が来るから
冷蔵庫を開け、タッパーとパンが入った袋を取り出した。タッパーにはポテトサラダが入っている。昨日、多めに作っておいた。
加賀谷さんは、ポテトサラダのサンドイッチが大好物だ。偶然だけど、ご機嫌とりみたいになった。
オーブントースターにパンを入れていると、寝室で音がした。加賀谷さんが目を覚まして服を着ているのだろう。しばらくして足音が聞こえた。
ドアが開く瞬間、私は息を吸った。
「おはようございます。加賀谷さん。座って待っていてください。すぐにできますから」
背を向けて一気にしゃべった。よかった、自然に挨拶できた。
「おはよう。俺もすることあるか」
「大丈夫です。あとはオムレツを作るだけです」
椅子を引く音が聞こえた。きっと、座って私の動きを見つめているのだろう。
「晴之、ゆっくりでいいからな」
忙しい振りをして、私はずっと後ろを向いたままになった。
「はい。でも早くできるようにします」
「いや。早くしなくていい。おまえの早さに俺も合わせるから。俺はおまえができるようになるまで待っているから」
その言葉は、昨夜のことを指しているように感じた。私はキッチンの淵を握りしめた。
「……それって、料理のことですよね」
「……ああ、そう思っているならそれで構わないよ」
加賀谷さんの声はとても小さかった。ベッドで聞いたささやきを思い出した。
きっと起きたばかりだから、甘ったるい声が出せるんだ。
気遣われているなんて思いたくない。これくらいのことで心配されるほど自分は弱くない。
ボウルをキッチンの上に置いた。冷蔵庫から出した卵をふたつ取り、割ろうとした。
「あ」
一個目は殻が入った。箸を使ったけど、黄身が滑って取れなかった。てこずっていると加賀谷さんは気づいたらしい。後方で椅子から立ち上がる音がした。
「俺が取るか」
「できます。これくらいできます」
どうにか殻を取り出せた。でも、たくさんの黄身が零れてしまった。次こそはちゃんとやる。そう意識しながら、卵を掴もうとした。
滑ったと思った瞬間、卵は落ちて床の上で砕け散った。
白い殻が無残に割れ、黄身が床に広がる。
「あ、あーあ」
加賀谷さんが駆け寄ってきた。びっくりするくらい穏やかな口調だった。呆然とする私の横でしゃがみ込み、加賀谷さんは黄身をキッチンペーパーで拭っている。
「ごめんなさい」
私もしゃがんで、砕けた殻を拾った。私の顔を見つめ、加賀谷さんは微笑んだ。
「晴之はえらいな。にわとりさんに謝っているんだ」
私は首を振った。加賀谷さんに迷惑をかけたから言っただけなのに。殻を掴んだ手を、強く握った。
殻が手のひらに刺さって痛かった。
「どうして……みんなができることが、私にはできないんだろう……失敗したくないと思うと、いつだってうまくいかない」
空回りばかりする自分が悔しかった。
俯いていると、抱き寄せられた。
「晴之、そんなに落ち込むな。おまえは初めてなんだから」
私の頬に、加賀谷さんは唇を寄せた。たったそれだけの仕草でも、私を駆り立てるには充分だった。
加賀谷さんに抱きついた。掴んでいた卵の殻が、床に落ちていく。
「うまくいかないからって焦っちゃだめだよ。いつかちゃんとできる日が来るから」
私は何度も頷いた。
卵のことを言っているのではないとわかっていた。
加賀谷さんの言いたいことは理解できる。でも、もどかしくて仕方がなかった。
「それまで俺は晴之のこと、ずっと待ってるからな?」
あやされるように背中を撫でられた。自分の頬を加賀谷さんの頬に押しつけて、私はひたすら目を閉じた。
もう、加賀谷さんから触れてくることはないような気がする。加賀谷さんは本当に私の親になってしまった。怯える私を庇護する立場になった。
自分の欲望を抑え込もうと決心したのだ。
私が踏み出さなければ、私たちの関係は変わらないだろう。自分が作り出した不安という壁を、自らの手で打ち砕かなくてはいけない。
いますぐ、どんなことも恐れない勇気が欲しい。強く大胆な自分になりたい。
早く大人になりたいのに歩み出せない自分に、私は苛立っていた。
ともだちにシェアしよう!