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 畑に沿って緩やかにカーブした坂を降りていく途中、前方の退避スペースとなっている道の端に見覚えのあるシルバーの軽ワゴンが止まっているのが目に入った。  津曲と別れたあの場所からここに来るまで側道はなかったことを考えると、もしかしたら先ほど背後を通り過ぎて行ったのはこの車だったのかもしれない。  まさかな――、と思いつつエンジンがかかったままの車の傍を通り過ぎようとしたところで、タイミングを見計らったかのように運転席のウィンドウが降りてきた。 「神代さん……、でしたっけ?もうお帰りですか?」  嫌な予感が当たり、ニッと顔を出したのは、先ほど津曲のところに野菜を差し入れに来ていたタレ目――津曲本人の口から聞いたわけではないが、おそらくあいつの恋人でもある――隼人とかいう男だった。  津曲と別れの握手を交わしていたときに背後を通りがかったのがこいつなら、あの絶妙なタイミングはひょっとして近くで見張っていたのではないかとさえ思えてくる。 「この時間はあと1時間はバスが来ませんから。何なら駅まで送っていきますよ?」  「結構です」とぞんざいに返して通り過ぎようとし、男の背後の人影が目の端を掠め、思わず足を止めた。  先ほど津曲のところに顔を出したときには誰もいなかったはずの助手席で、ハタチそこらの若い女の子が腕に赤ん坊を抱いている。男の肩越しに目が合い、軽く会釈された。  胸糞悪い仮定が一瞬脳裏を過り、流石にないだろ――、と心の中でそれを打ち消す。  けれど、訊ねた声は緊張し、少し上擦っていた。 「そちらの……、女性は…………?」 「あぁ。俺の嫁。と娘。さっきレオんとこ寄る前に健診に送っていって、終わって今から家に帰るとこ」 「はあ!!?じゃ、なんだ?あいつは!?あいつのことは……!?」  遊びなのか?――という言葉をかろうじて飲み込んだのは、荒げた声に瞠目した様子の奥の女性が視界に入ったからだ。 「あんたやっぱり、レオのこと……」  その瞬間、隼人が目の色を変えたのがわかった。  「少し話してもいいか?」とエンジンを止め車から降りてきた隼人に促され、車の後ろに回り込んだ。  「ちょうど授乳の時間だったから」――そう言って快く旦那を送り出した嫁は、今も助手席にいる。明るい髪色のせいでパッと見、派手な印象を受けるが、先ほどの控えめな会釈からして、性格は慎ましいのかもしれない。  会話を聞かれてこの浮気男が窮地に立たされるのは当然の報いだが、乳飲み子を抱える母親に心労を与えるのは本意ではない。  だからバックドアを背もたれに今にも立ち話を始めそうな様子の男へ、何で俺が気を使ってやってんだと苛立ちながらも声をかけた。 「おい。話をするなら別の場所の方が……」 「大丈夫。嫁に隠し事はしねーし、そんな疚しい話でもねーから」  言葉通り後ろめたさを微塵も感じさせない堂々とした態度に、自分の認識の方が揺らぎ始める。  津曲とこの男の親密な雰囲気から、二人をただならぬ仲だと勝手に思い込んだのは自分だ。実際にこいつと付き合っていると本人の口から聞いたわけではない。  だが津曲とこの男が疚しい関係でないとしたら、津曲は一方的な片思いで、「一人じゃないから大丈夫」と言ったのだろうか……?たとえ好きな相手が結婚していても、近くにいてたまに顔を見れるなら、それだけで十分だと……?  強気な言葉とは裏腹にそれを口にしたときの淋しさの滲む津曲の笑顔を思い出し、再び胸が締め付けられる。 「あんたも吸う?」  煙草の箱を差し出した隼人に首を横に振り、肩にかけていたボストンバッグを道路に置いた。組対時代は付き合い程度に吸っていたが、対策班に異動した2年前から煙草はやめている。 「子供が生まれてからはずっと禁煙してたんだけど……、ダッシュボードに最後の一箱隠してたの知られてたみたいで……。車降りるときに、ん、って渡してくれた」  下がり気味の目をゆるく細めた横顔は、いかにも幸せそうで……。  気の利くいい嫁さんだな、とは思う。  けれど、津曲の気持ちを考えると、それを口にするのは憚られた。

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