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Stolen Car 1

 結婚したゲイからは不幸の匂いがする。  行為の後、冷たい空気のなかで意識を澱ませていた僕は、あなたのブリーフケースから車のキーを盗んだ。  あなたがシャワーを浴びているあいだに、部屋を出る。胸に響く鼓動がうるさい。ホテルの暗い駐車場へ出て、あなたの車に指を触れさせる。黒豹のようななめらかなボディの車が、静かに僕を迎えた。  シートへ座り、闇のなかへ車を放つ。車は地面に吸い付くような走りで国道一号線を藤沢方面へ下っていく。  ハンドルを握りながら、あなたのことを考える。僕は夜以外のあなたを知らないから、あなたの身体の線を辿るようにあなたの経歴を妄想する。  会社の役員、二人の小さな子供と美しい妻がいる。妻は私立の学校へ通う子供の用事で疲れ切っていて、あなたの面倒まで見る余裕がない。帰りが遅いあなたを疑いもしない。あなたはカモフラージュで結婚した妻を、愛玩犬のように大切に思っている。でもあなたの渇きを癒やせるのは、あなたと同じ放埒な男だけだ。  あなたには僕以外にも恋人がいる。たぶん情熱的な若い男だ。金目当てかもしれないし、あなたの身体が目当てかもしれない。恋人はあなたが自分のものにならなくて苛々している。仕事中のあなたに電話をかけては、あなたを困らせている。  俺を今夜ダンスへ連れていってくれよ。恋人は誘う。今夜じゃなきゃ駄目なんだよ。あんたは誰に対しても執着しないからな。  俺はあんたという牢獄の囚人だから、あんたの言うことを聞かずにはいられない。だから今夜、俺をダンスへ連れて行ってくれよ。  うらやましい。僕は信号待ちの静寂が訪れた車内で唇を噛んだ。僕はあなたの美しい影に潜む一匹の蛆虫のようなものだ。あなたは僕の夢のなかにさえ現れない。  だからあなたの車を盗んだ。あなたの輝かしい人生に、薄く黒い染みをつけてみたかった。あなたはいつ車がなくなったと気づくだろう。僕のことなどしらばっくれて、車が盗まれたと警察に訴えるだろうか。  僕は一号線を出ると、湘南方面へ車を向けた。車はオレンジの灯が連なる街道を滑るように走っていく。  僕は国道百三十四号線を目指してアクセルを踏んだ。あなたから遠く遠く離れなければ。あなたの人生にすこしでも瑕をつけるために。  僕は江ノ島へ出ると、百三十四号線を下って海と並走した。海際のコンビニエンスストアの駐車場へ車を停め、防砂林を抜けて砂浜へ出る。  暗い海岸には、汚れきったレースの縁のような波が押し寄せていた。白い漁り火を放つ船が見える。  生まれて初めて罪を犯してしまった。そして愛する人の人生に瑕をつけてしまった。このことがあなたの妻に発覚したら、僕はあなたから見捨てられるだろうか。  僕は嘘塗れのあなたの人生を変えたかったのだろうか。あなたが僕を選ぶことはないとわかっていたから、僕はこんな愚行に走ったのだろうか。  海鳴りが耳元でくぐもって聞こえる。疑念は足元に打ち寄せる波のように、いくつもいくつも浮かんで消える。  背後で僕の名前を呼ばれた。はじかれたように振り返る。  暗い防砂林の影を背負って、あなたが立っている。

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