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4. そういうんじゃない

「八木沢くんって塾行ってるの?」 「行ってないけど、なんで?」 「えー、頭いいんだねぇ」  中学生の頃のことだ。  ほとんど話したことがない女子生徒に話しかけられて、俺はひどく緊張していた。  塾に通う必要性を感じたことはなかった。教科書があれば内容はわかるし、練習問題があれば一人で勉強できる。教えてもらわないといけないようなことは思いつかない。 「ねぇ、勉強教えてくれない?」  マンガの中でなら、何度も見たシチュエーションだった。女子と話すこと自体がほとんどなくて、顔をよく見れなかった。 「い、いけど」 「やったー、ねぇ、いいって」  いつの間にか彼女の周りには二人ほどの女子生徒がいた。三人ともみんな、勉強を教わりたいのだろうか。緊張で心臓がばくばくいっている。 「じゃあ、放課後八木沢くん家行っていい?」 「えっと……」 「家の方が集中できると思うんだよね」  俺はその三人の名前もよく覚えていなかった。同じクラスになってもう三ヶ月が過ぎているのに。  女子と勉強会。それだけで頭の中がいっぱいだった。  彼女たちは本当に、家にやってきた。信じられなかった。普段はまともに話すこともできないのに、俺の家の中にいるのだ。母は突然のことで驚いていたけれど、でも彼女たちを歓迎してくれた。 「あら、お菓子もないのよ、今。ごめんなさいね」 「こちらこそ、急にすみません。おかまいなく」  彼女たちは礼儀正しかったけれど、ただひとつ、子供部屋を見たいと言った。散らかっているし、勉強はリビングでした方がいいと言っても聞かなかった。  とうとう根負けした俺が部屋に連れて行くと、「ここで和くんも寝てるの?」と言って黄色い声を上げた。 「これが和くんの机?」 「やだ、これ寝間着?」 「どうしよー!」  ……どうして期待などしてしまったのだろう。  彼女たちが本当に自分と親しくなりたがっているなんて思ってしまったのか。  次こそは、と思ったことが何度あるだろう。でも呼び出されて二人きりで話がしたいと言われたら、和の話だった。  手紙をもらったと思ったら和宛てだった。  そんなことばかりが続いて、自分から女性を避けるようになった。ただ勉強にだけ熱中した。いい点を取らないと、母に怒られる。いい大学に行ければ、ここを離れられる。  自分の手で、自由をつかみ取るのだ。  そうしてそのときは……そのときにはきっと、俺自身のことを見てくれる誰かが、見つかるのだ。  ・ 「わかる、あの先生雑談ばっかだけど、全然違うよね」 「教科書の内容話すだけだったら教科書読むからな」  大学近くのファミリーレストランは、同じ年代の客でいっぱいだった。サークルの集まりやグループワークの相談など、あちこちで大学生が話をしている。 「あの先生、出してる本も面白くて。この間も論文で変なこと書いてたんだけど」  テーブルの上のピザはどんどん減り、安いワインも進んだ。  和と離れて、やっと彼女ができると思った。実際に大学に進学して、女性と付き合うこともできた。でも佐塚とは結局ろくに話もしないままだ。  俺は彼女のどこが好きだったのか。長い髪。細身の腰。そんなことしか思い出せない。彼女との会話はいつも弾まなかった。  前山は全然違う。同じゼミだから当然なのだが、共通の話題も多く、勉強熱心で話していて楽しかった。 「そういうとこ八木沢は偉いよね。授業に必要もないこともちゃんと調べてるし」 「いや、たまたま読みたかっただけだから」 「勉強、好きなんだろうね」  ずっと必死だった。それしかなかったから。  ――どうして百点じゃないの? 「いや……」  今まで、中高と女性と話した経験が少なかったために、女性を別の生き物のように思いすぎていたのだと思う。彼女たちは化粧や芸能人や服のことばかり考えているのだと思っていた。 「ごめん、変なこと言った?」  前山はこざっぱりとした恰好をしている。男性的というわけでもなく、おしゃれでもあるのだが、緊張させられることはない。 「うちの母親、勉強に関しては結構厳しくてさ」 「うちもそうだよー」 「一問間違えて九十七点とかだとすごい怒られた」 「うわー、四捨五入したら同じなのにね」  こんな愚痴、誰にも言ったことがなかった。ワインを飲んでいることもあって口が回る。  前山も和についての噂は耳にしているだろうに、一言も聞かなかった。飲み会で一度しか会ったことがないような薄い知り合いとは大違いだった。それらのメッセージすべてにまともにやりとりするのもばかばかしいので、途中からは読まずに消した。  一時の話題にはなっても、結局みんな忙しく飽きっぽい。どうせ、すぐに忘れるだろう。もともともう、何年も前の事件なのだから。 「ただいま」  酔いに任せて口にした言葉に、返答はなかった。だが狭い部屋だ。実家にいた頃ならまだ無視する方法もあったのに、1Kのアパートではそれもできない。 「何だ、この匂い」 「あ、おかえり」  嫌な予感はしていた。ドアを開けた途端、信じられないくらい匂いが強くなる。和は狭いキッチンに立っていた。 「兄さん、飲んできたの?」  前山と話しているのは楽しかったのに、和を前にすると一気に現実に引き戻された気がして酔いがさめる。 「お前、料理なんてできるのか?」 「さぁ」 「さぁってじゃあ今何やってんだよ」  部屋に漂う匂いは確かにカレーだ。 「やってみようかなと思って」  和はどうしてこんなに、平然としているのだろう。  小学生の頃のクラスメイトも、中学生のときの先輩も、みんな俺に和の話をしてきた。今も変わらない。気まずくてしばらく連絡を取っていなかったサークルの先輩や、あまりよく知らないゼミの生徒や……様々な人が、俺に和の話を振ってきた。誰かがわざわざ記事を知り合いに回したらしい。  直接和に話しかける者だっていただろう。彼の友好関係はよく知らないけれど。 「俺、飯食ってきたから」 「味見だけでもしてくれない?」  和はそう言って、小皿にスープのようなカレーをすくう。  実家で母が作ってくれたのは、もっとどろりとした普通のカレーだ。今目の前にあるそれは、粘度が低くてさらさらしている。具もチキンだったり、家のカレーとはまるで違うものが入っていた。 「これ、スープカレーか?」 「たぶん」 「たぶんって何だよ。俺は腹いっぱいなんだって」 「一口だけ」  和は自分で作ったくせに、初めて見るものみたいに不思議そうに目の前の皿を見ている。まるで宇宙人が人間の文化をまねてみたかのような、変な態度だった。  においは悪くないし、カレーならそうまずくはならないだろう。そう思って俺はひと思いに口に運ぶ。 「まぁ……悪くはないんじゃないか」  正直、味は悪くなかった。まぁカレーなんてたぶん、ルーでも使えばそれなりの味にはなるだろう。  一時期の混乱は過ぎつつあった。実家からも電話がかかってきて、父は弁護士を通して正式に抗議すると言っていた。やらないよりはマシだろうが、どうせいたちごっこだろう。  母は和のことを心配していた。でも、和はずっとけろりとしていた。  慣れているのだろうなと思う。よく知らない人にあれこれ言われることに。 「なんで急にカレーなんだよ」 「昔、作ってもらってた料理をずっとカレーだと思ってたから、母さんのカレー食べてびっくりした」 「何?」  和が昔のことを話すのは珍しい。和は、今も俺のベッドで寝ている。やっぱりたまに悪夢は見ているようだった。俺にとってもそれが日常になりつつある。 「俺が知ってたの、カレーじゃなかったんだよ」 「じゃあ何食べてたんだよ」 「たぶん、ビーフストロガノフっていうやつ」 「洒落てんな」 「うん。……『あの人』、そういうのが好きだったから」  何と答えていいかわからなかった。和は今の……俺の実の母である人を「母さん」と呼んでいる。「あの人」と呼んだ実の母親のことはよく知らない。ただすごく美人だったと聞いたことがある。たぶん事実であることは、和を見ればわかる。 「ずっとカレーだと思ってた」  和は宙の一点を見つめながら呟いた。一時はモデルもしていたらしいが、妊娠して北の田舎町に移り住んだ女性。彼女は日々、何を思っていたのだろう。  きっと今の和のように、よく知らない人からあれこれ言われたりもしただろう。 「あれがカレーなんだって、ずっと思ってたんだ」  ・  サークルに行かなくなって、俺の生活には少しだけ余裕ができた。もちろん勉強の時間は必要だが、一日中手が離せないというわけではない。  できればバイトがしたかった。家庭教師なら、あまり時間がかからず稼げるだろうか。  そんなことを、食事をしながら前山に話した。彼女とは、授業の前によく学食やファミレスで一緒にランチを取るようになっていた。 「前山は何かバイトしてる?」 「してるよー、あ、そうだカレー食べた?」 「え?」 「私のバイト先、カレー屋」  前山はもともとカレーが好きで同好会にも属しており、都内のカレー屋をはしごしたり、マニアックで本格的なカレーを作ったりしているらしい。そんなことは初めて聞いた。  嫌な予感がした。 「カレーって、和が作ったやつのことか?」 「おいしくなかった?」 「いや……うまかったけど」 「なんかさ八木沢、和君の話になると急に不機嫌になるよね」  前山に悪意はなさそうだったけれど、どきりとする。  せっかく前山といい感じに関係を築けているのに、また和の話題なのかと思ってしまったのだ。まさか和が作ったカレーに、前山が関係しているなんて思わなかった。 「いや……」 「別にいいけどさ。男兄弟って謎だよねー」  俺の気まずそうな雰囲気を察して、前山はおそらくフォローしてくれたのだろう。だが、そういう風に「兄弟」で片付けられてしまうのも嫌だった。  ――普通のことなんだって。 「そういうんじゃない」  普通の兄弟はキスなんてしない。和はそういうのとは違う。 「色々昔からあって……わかるだろ」 「何が?」 「顔が」 「え?」  前山はとぼけているのだろうか。いつだって、俺に話しかけてくる女子は和目当てだった。俺はぼそぼそと、和の顔がいいから、と口にする。まったくいったいなんで、俺がこんなことを言わなければならないのか。 「え? イケメン?」 「何言ってんだよ」  本気で腹が立ってきた。恥を忍んで口にしたのに、前山はまだぴんときていないようだった。彼女は和に何度も会っているはずなのに。 「そんなにかっこいいかなぁ……?」 「本気で言ってんのか?」 「なんで八木沢が怒るの?」  和の顔立ちはいい。俺にとって、それはあまりにも当たり前のことだった。 「そりゃ悪くはないかもしれないけど、そしたら八木沢だって変わらないじゃん」 「はぁ?」 「イケメンじゃん」 「いや、そういうお世辞はいいんだよ。単に、客観的な話だから。和は俺とは全然違うだろ。比べものにならない」  俺のニキビ跡は目立たなくなったとはいえ、完全になくなったわけではない。自分がいわゆる「イケメン」には含まれないことくらいわかっている。 「客観的なイケメンなんていないよ。イケメンっていうのは私にとってかっこいいかどうかだけ」  前山は自信満々に言う。それはつまり、俺の容姿も彼女にとってはそう悪くないということなのだろうか。そう思うとじわりと顔に熱が集まってくるのが分かった。恥ずかしいようなむずむずするような感じで、どうしていいかわからない。 「そうか」 「そうだよ」 「なんか……ごめん」  いや私こそ、と前山は言った。何だか彼女も照れているようだった。  誰も彼も、和のことばかり見ているのだと思っていた。惹かれざるをえないのはわかるからだ。あれほど整った顔を、俺は他に知らない。もし俺が八木沢の家とは全然関係ない女に生まれていたとしたら、やっぱり俺よりも和を好きになるだろうと思ってしまう。 「カレー、このへんだとどこがうまいんだ?」 「あ、ええとね。何系?」  前山は同好会の人間らしく、ひとしきりマニアックなカレーの種類を列挙してくれる。  今まで自分は、前山の何を見ていたのだろう。イケメンだと言われたからだろうか。俺はそんなに単純なのだろうか。何だか前山のことがかわいく見えて仕方がなかった。  前山は話しやすく、俺のことを和と比べたりしない。彼女ならきっと、和のそばにいたって大丈夫だ。あんな女性もいるのだなと思う。 「カレーまだあんなら食うぞ」  昨日の夜、一口しか食べられなかったカレーを俺は皿によそる。普段は和も俺もほとんど自炊はしていなかった。実家では何でも母がやってくれてしまって、料理を手伝うこともなかった。 「これ、前山に教えてもらったんだろ?」  カレーはスパイスの味が強く、本格的な風味だった。 「兄さん、彼女のこと好き?」  和は自分の食事は終わっているはずなのに、テーブルについてたまに俺の方を見ていた。  俺でさえ今日自覚したばかりなのにの和は目ざとい。 「彼女って?」 「前山さん」 「何だよ、別に普通に好きだ、それだけだ」  変に違うと言うのもおかしいかと思い、俺は必死にとりつくろう。  彼女は和のことをそんなにイケメンでもない、と言っていた。前山は今までの女の子とは違う。 「やめた方がいいよ」 「なんでだよ」 「それは……言えないけど」  和は神妙な口調で言う。もったいぶった態度に、ひどくイライラした。 「俺、兄さんのこと好きだよ」 「何言って……」 「ほんとだよ」  思いがけないほど真摯な声で、唐突に和は言う。俺は、こんな風に誰かからむきだしの好意をぶつけられたことなんてない。和を除いては。  同じように、和から視線を向けられたい女性はいくらでもいるだろう。なのになぜ、俺なのか。 「いい加減にしろ」 「兄さんだけが好きなんだよ」  男が好きなのかとか、血縁はなくても兄弟だろとか、言葉が浮かんでは消えてしまう。和のまっすぐで、でも根本的に曲がった言葉の前でそんなこと言っても何の意味もないことがわかるからだ。 「お前、おかしいだろ」  結局口をついたのはそれだけだった。和とはたぶんこの先もずっと平行線で、交わることはない。  同じ部屋にいたって、ずっと遠いままだ。 「もう寝るから」 「兄さん」 「俺、さっさとバイトして家探すわ。お前だって、何とかしろよ」  和はそれ以上、何も言い返してこなかった。  ・  嫌な予感がして仕方がなかった。前山とは今まで通り、授業の話をよくしている。  前山への好意を自覚してから、だんだん怖くなってきた。彼女は和の顔には惹かれないと言った。でも、だからといって俺を好きになってくれるとは限らない。授業の話をするのにちょうどいい相手だっただけで、急に告白したりしたらきっと引かれるだろう。  俺自身を好きになってくれることなんて、本当にあるのだろうか。  そんな人は、本当にいるのか。  俺は勉強に集中した。実際、それ以外できることもなかった。大学を選べたのだって、俺が勉強をしっかりやったからだ。俺が唯一、自分で選べた自由の道。和が追いかけてきたのは計算違いだったけれど、それも終わる。  俺は俺の手で自由を掴み……そして、俺自身を見てくれる人と付き合う。  前山とはいつも通りだった。ゼミで会えば会話をしたし、学食やファミレスでよくランチを食べた。関係は順調だと思う。でも俺はずっと不安だった。  嫌な予感は当たる。  家の中にいても、和とはほとんど会話していなかった。和は昼間は専門学校に行っているのか、部屋にはいないことが多かった。食事の時間もばらばらだ。和が同じ家の中で生活している気配は感じる。だけど、顔を合わせる時間は短い日々が続いた。  俺は意を決して、前山を夕飯に誘った。 「ちょっと、色々相談したくて。ゼミに関することとか」  手頃な値段でおしゃれな、大学から近いイタリアンの店を調べてから連絡した。だが、前山の返事はノーだった。 「ごめん、ちょうどお母さんがこっち来てて、色々相手しないとなんないんだよね」  そういうことなら仕方がない。不安を覚える必要などないはずだった。  俺は家に早く戻る気にはなれなくて、学校の図書館で勉強をしていた。外に出る頃には九時を過ぎていて、腹も減っていた。  一人だから牛丼か何かで済ませよう。そう思いながら、家への道を歩いていた。通りの先にある店から小柄な女性が出てきたとき、前山に似ていると思ってとっさに足が止まった。 「え……」  まさかと思った。でも、出てきたのはまさに前山本人だった。  彼女は一人ではなかった。後ろ姿でもすぐにわかる。和だ。俺はとっさに、隠れるように足を止めて後ずさる。  跳ねる心臓を落ち着かせようとする。どうして二人が一緒にいるのか。いや、カレーの話をしていたし、会話くらいはする仲なんだろう。  大丈夫だ。前山はきっと、和には惹かれたりしない……。  よく見るとそこには二人の他にもう一人いた。中年の女性はおそらく、こちらに出てきているという前山の母だろう。  どうして、和が前山の母親の前にいるのか。  前山の母親が、深々と頭を下げた。彼女の声はよく聞こえなかった。でも、それに呼応したように和も頭を下げる。ゆっくりと血の気が引いていく。 「お母さん……やめてよ……じゃないって」 「あなた……こんな」  三人が出てきたのは、俺が前山を誘おうと調べていたイタリアンより、数倍の値段がするだろう、有名なフレンチの店だった。  よく見ると和も、見慣れないジャケットを着ている。  俺があまりに凝視しすぎていたせいだろうか。ふと、和がこちらを向いた。前山はまだ気づいていない。でも、和とはっきり目が合った。  和はそっと、前山の肩に手を回した。前山は振りほどいたりしなかった。前山の母がもう一度、頭を下げる。 「……どうか、娘をよろしくお願いします」  どうして、俺を選んでくれる相手がいつか現れるなんて期待してしまったのだろう。  そんなことないのに。俺の人生に本当はいるはずではなかった弟。誰も彼も結局はみんな彼に取られる。俺の近くにいる人はみんな和が目当てだ。  俺本人を心から見てくれる人がいつか現れると信じていた。  信じたかった。  でも和がいる限り……そんなことは、この先もきっと一生、ありえない。

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