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【5】-2

 鮫島は相変わらずだ。  筋肉の削げ落ちた痩せた身体は目を覆わんばかりの哀れさだし、全身を埋め尽くす傷跡は変色したり引き攣れたりしていて痛々しい。ほとんど聴覚が無いという左耳は回復の見込みがなく、季節の変わり目に起きるという関節や古傷の疼痛も治癒することはないだろう。なにより鮫島の心はまだまだ闇の深淵を這っている。 「さて───彼の様子はどうですか?」  二週間ぶりに訪ねた香久山を見て宮辺は言った。 「体調は悪くないようです」 「それはなによりね」  宮辺の甘い声が心地いい。 「鮫島は来ました?」 「いいえ、あなたが来て下さるようになってからは一度も。彼になにか変わったことでもありました?」  手元のカルテに視線を落とし、宮辺はなにか書き込んでいる。  なにを根拠にそんな疑問をという香久山の眼差しに気づき、宮辺は小さく笑った。 「一週間飛びましたよね……仕事の方でなにかあったのかと思っただけですよ。他意はありません」  鮫島が宮辺の治療を拒まなかったのはなぜだろうと香久山は考えることがある。この鋭さのせいなのだろうかと。或いはこの声のせいだろうかとも。 「…鮫島は……鮫島のことを話してよろしいですか?」 「もちろん」 「先生もご存知でしょうが、鮫島は『執着』ということを知りません。いえ、『執着』することがないと思っていましたし、実際、鮫島がなにかに『執着』しているところを見たことがありませんでした。鮫島の過去をご存知なのですから想像に難くないと思いますが、鮫島は自分自身にすら執着しない……殴られるまま父親に殴られてあんな身体になり、拷問されるまま一年を過ごし、逃げてきてからだってただ生きているだけでした」  香久山はふいに言葉を切った。  宮辺はちらりと顔を上げ、しかし先を促すことはせずに小さく微笑んだ。 「鮫島が私に執着しました───正直、驚きました」 「それはどんな執着だったのかしら?」 「少し前のことです。私が仕事の相手と親しくしていたら、傍でそれを見ていた鮫島が不機嫌になり、あの人が好きなのかと言ってきました。私はどう返せばいいのか分からなかった。なぜなら私は、恋愛という意味ではなく、同僚のことを好ましく思っていましたから。嘘はつきたくない……でも、鮫島には違うと言いました。おそらく鮫島は、いろんな種類の好意があることを理解できていない───なぜなら鮫島は愛されたことがありません。無条件で愛してくれる筈の両親にすら、大事にされたことがないのです。だから、鮫島の中には『好意』というものがないのです」 「でも彼はあなたのことが好きだと何度も言ったわよ」  宮辺の言葉に香久山は小さく笑った。 「先生、鮫島はこの十日ほどで劇的に変わりました。先生がご存知のかつての鮫島は、私のことを『好ましく思う』という程度にしか認識していなかったのだと思います。そして、私以外の人間は、知っている人か知らない人……そのぐらいの認識だったのでしょう」 「あなたは好意を示してあげたのでしょう? 鳴海やヒデやおじい様も可愛がっていたらしいけど、彼が反応したのはあなたの好意に対してだけでしょう? それが彼の答えじゃないの?」  言った宮辺を香久山は見た。 「あなた、ちゃんと彼に愛されてるじゃない」  宮辺ははっきりそう言った。断言を避ける精神科医にしては珍しい、どこか決め付けるような口調だった。 「───そう取ってもいいんでしょうか。裏切らないと誓ったくせに、すぐにその決意が揺らぎそうになるような男が、鮫島の傍にいてもいいんでしょうか?」  宮辺は呆れたという風に苦笑した。 「あなた以外の誰が彼を守ってあげられるの? 鳴海もヒデもおじい様も立候補したのに、彼が選んだのはあなただった。もしもあなたが背を向けたら、彼は完全に心を閉ざしてしまうかもしれない……それどころか、生きることを放棄してしまうかもしれない。あなたは分かっていて彼の手を取ったのでしょう?」  宮辺の言葉は、あれこれ悩んでいた香久山の心を簡単に納得させた。やはり宮辺は名医だ。他の患者にとってどうなのかは分からないが、自分たちにとっては最高の医者だったと香久山は思う。灰原鳴海と昔馴染みだという女医を、今では香久山は心から信頼している。  診察室を出ていきながら、香久山はふと思い出したように宮辺を見た。 「近いうちに鮫島にここに来るように言っておきます」 「ええ、そろそろ会っておきたいわね」 「鮫島をよろしくお願いします」  香久山は深く頭を下げた。 「───晴々した顔ね、香久山さん」 「そんなに露骨ですか」 「さぁ、どうかしら。あなたの周囲の人にはなにも言われなかった?」  香久山は曖昧に笑って返した。鮫島と寝たことをどうやら悟られているようだった。  その足で事務所に顔を出すと、灰原と相良に挟まれて鮫島がぽつんと座っていた。  灰原と相良は仲がいい。まるで兄弟のようだと思うことがあるぐらいに。幼い頃の鮫島は、この派手な二人と一緒に、どんなふうに月照寺で過ごしたのだろうと香久山は思う。 「姫、お迎えかい?」  香久山に気づいた灰原が言った。 「……」  縋るような目で鮫島は香久山を見た。それはまるで助けを求める子供のようだった。 「みんな出払っちまったから、凪にいろいろ聞いてたんだ。だって、なぁ…鳴海?」 「ああ、今日もなんだかぼんやりしてたよねぇ。心ここに在らずって感じで。それなのに時々、思い出したように笑うんだよ。くすって。オカシイよねぇ……凪が寺にいた時、あんな風に笑った顔を見たことある?」 「ねぇなぁ……一度も。俺たちは凪の幸せそうな顔を見たことないねぇ。笑うだけなら見たことあるが、幸せそうな笑顔は見たことがねぇ。やっぱり鳴海も見たことねぇんだな」  灰原と相良は顔を見合わせてうんうんと頷いた。 「……頭、なにかご用ですか?」  控えめに香久山が促した。 「いや、なにも用はないよ。凪を連れて帰ってくれ」  言いながら、灰原は鮫島の肩をぽんぽんと叩いた。帰り支度をするのか、鮫島は奥のロッカーを開けた。 「姫、ちょっと屈んで」  灰原がにこっと笑って手招いた。 「凪にあんな嬉しそうな顔をさせてくれてありがと。俺たちに凪のあんな笑顔を見させてくれてありがと。凪は言った、姫は風のような人だって。俺たちにすれば、姫は掴み所が無い得体の知れない感じなのに、凪にとっては『風』なんだ。抗えない、でも心地いい強い風だ」  それを盗み聞きしていた相良が豪快に笑って香久山の背中をばんばん叩いた。 「───凪を攫っていく、な。ま、俺としちゃあ、姫が責任取ってくれるみたいだから文句はねぇが」  恐ろしい小舅がもれなく二人もついてきたことに微かな後悔を感じながら、しかし香久山はにっこり笑った。 「取りますよ、責任ぐらいいくらでも」  通りに出る鮫島を追うように、香久山も事務所を後にした。  鮫島に吹いた一陣の風はそれまでの逆風を吹き飛ばした。一人ではとても対抗できなかった、翻弄され続けた強大な運命から、まるで嘘のように鮫島を解放した。 「いいのか、姫───鳴海もヒデも本気だったよ」  並んで歩き始めて五分も経った頃、鮫島がぽつりと言った。 「───ええ、もちろん」 「そう……ありがとう」 「いいえ」  香久山は小さく首を振った。正直、不安が全くないわけではない。鮫島の抱える問題が全て解決したわけではないのだから。  香久山の躊躇も鮫島の恐怖も今はまだ眼前に聳え立つ壁だ。でも、いつか二人は克服する。香久山は鮫島のために、鮫島は香久山に支えられて、まるで小さな水溜りを飛び越すようにひょいっと乗り越える日が来るに違いない。上手く飛べず、足が引っ掛かってしまうかもしれないけれど、その時はもう一度やり直せばいい。たとえどんな過去でも、強固な意志を持って臨めば乗り越えられない筈はない。しかも鮫島には共に進んでくれる人がいる。  なにもなかったように屈託無く笑える日が来ると信じて彼らは一歩ずつ進むのだ。

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