1 / 19

プロローグ

――もう、五年ですか」  その呟きは傍らに立つ彼にも聞こえていたようで、そうだな、という答えが返ってきた。その声色はしみじみと噛み締めるようで、どこか切なげに聞こえた。  青空はどこまでも澄み切っていて、屋上で吹く風は彼の白衣を静かにはためかせた。 「彼は非常に優秀な医師だった。人間としても、な。苛つくほどに欠点のない、できた奴だった。いつも優しく微笑んでいて」  彼は苦い顔立ちで吐き捨てた。散々に貶したいのに、貶す部分がないからだろうか。  その後彼は、少し後に苦味を濃くした笑みを浮かべた。その表情が笑顔なのは、かつて自分が慕っていた相手だからだろうか。 「頭の螺子が何本か吹っ飛んだような奴だったけどな」  それを聞いて、思い出す。先生の狂気に満ちた笑いを。俺まで思わず、苦い顔になった。 「でも、あの子も大事な螺子が何本か抜けていそうだったな」  それを聞いて、耳元にあの時あいつが言った言葉が蘇った。確かに、そうかもしれない。あいつと先生は、愛に狂い、墜ちていったのだろう。 「愛に狂うには、それくらいがちょうどいいのかもしれないですよ」  彼はそれを聞いて「彼らは彼らなりに、幸せだったんだろうな」と呟いた。  きっとそうなんだろう。側から見たら不幸でも、愚かな行為でも、もっと別の愛し方、愛され方があっただろうと思われても。 「でも、いくら幸せでもそんな愛され方はしたくないなあ、俺」  独り言のように言うと、彼も同調するように答えた。 「そうだな、俺もそんな愛し方はしたくない」  互いに軽く笑い合ってから、空を仰いだ。空は、全てを受け入れるように壮大な青さを湛えていた。

ともだちにシェアしよう!