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3親愛と恋愛の境目は

「……先生それ、美味しいですか?」 「これかい? 美味しいよ、凪斗君も食べる?」  僕のベッドの隣の椅子に腰掛けて先生が食べるのは、大学病院併設のコンビニで買ったのであろう担々麺。しかし表面には、先生持参の七味がこれでもかとかかっていた。これでは麺を食べているのか、七味を食べているのか、分からないだろう。  先生が箸で摘み上げた麺は真っ赤で、思わず僕は首を横に振った。そんな辛いものを食べたら、涙が出てしまいそうだ。しかし先生は、美味しいのに、と首を捻ってずるずると麺を啜った。  そんなありえないものを食べている先生を横目に、僕は薄味の病院食を口に運んだ。  先生、と呼びかけると、先生は麺を啜りながら視線だけで問いかけた。僕は常日頃思っていた疑問をぶつけた。 「何で昼休憩の度に僕のところへ来るんですか? 一緒に食べる相手いないんですか?」  それを聞いて先生は「辛辣だなあ」と苦笑いした。 「食べる相手はいるよ、片っ端から断ってるだけ。凪斗君は私が来るの、迷惑かな?」  迷惑な訳がない。でも嬉しいなんて言ったらおかしいかと思い、 「別に。僕といるの、時間の無駄じゃないかな、と思っただけです」  その返答に留めておいた。本当は誘いを全て断って、僕のところへ来てくれるのが嬉しかったのに。 「時間の無駄なんて。私は楽しいよ?」 「僕は面白いこと一つだって喋れないのに?」 「君といるってことに意味があるんだよ」  首を傾げるとそう返され、髪を梳るように撫でられた。この人は、本当に信用して良いのだと錯覚してしまうほどに優しくしてくれる。それが心地よくもあり、怖くもあった。だって僕は、優しくされても何も返せないのに、どうして。 「物好きな人ですよね、先生は」 「君は自虐的すぎるよ。凪斗君にはいいところ、たくさんあるのに」  先生はにこにこしてそう言った。そして、まあ、と髪を掻き上げ、独り言のように呟いた。 「他の人に理解されても困るんだけどね。そうなったら――」  その先はよく聞こえなかった。先生の表情は変わらないように見えて、その目は暗く澱んでおり、手を伸ばせば呑み込まれてしまいそうな闇を湛えていた。 「……先生?」  少し恐ろしくなって尋ねると、先生は「ん?」と聞き返した。いつもの先生だった。ほっとして僕はつい、余計なことを尋ねてしまった。 「先生って、恋人とか好きな人とか、そういった類の人はいるんですか?」  すると、先生の動きが止まった。地雷だっただろうか。 「凪斗君は?」  先生はじっと僕を見据えた。その目はどこか、詰問するようにも見えた。 「いませんけど」  第一友人すらまともに作れないのだ。いるはずがない。しかしそれを聞いて先生は、安心したように微笑んだ。 「そっか。私はいるよ、好きな人」  ずき、と鈍く心が痛んだ。心臓が嫌に高鳴る。仲が良い人が誰かにとられるのが嫌だ、という子供じみた独占欲だろうか。相手は成人した立派な社会人なのに馬鹿馬鹿しい、と自分を詰った。 「どんな人ですか?」  先生は微笑んだまま、こちらの度肝を抜くような答えを言った。 「凪斗君」  耳を疑って、えっ、と聞き返したが、先生は不意に鳴った病院関係者用の電話をとり、二、三言応答してすぐに電話を切ると、僕に手を合わせた。 「ごめん、今すぐ行かなきゃ。話はまた後で」  僕は先生が電話をしている間少し考えて、一つの結論を出した。――すなわちそれは、先生は適当なことを言って僕を誤魔化そうとしている、という。  だから僕は、慌てて出て行く先生の背にこう投げた。 「先生、僕はもう子供じゃないんですから、そんな誤魔化し効きませんよ」  だが振り返った先生の顔は、予想に反して至極不思議そうだった。 「誤魔化し? そんなことしないよ」  そのまま先生は、蓋をつけた担々麺を手に持って、慌ただしく部屋の外を駆けて行った。  先生のその言葉は、飲み下せない大きな飴玉のように突っかかって、不快でそして落ち着かない気分に僕はさせられた。

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