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6親愛と恋愛の境目は
あの時のキス以来、僕の中で何かが変わってしまったように感じる。
あって当たり前だった先生の微笑みが、どこか愛しいものに思えたのだ。また、先生のことを何も知らなかったことに気が付き、先生のことに関して度々問うようになった。
同性だから、という嫌悪感は皆無だった。元より僕は、そういう偏見は持ち合わせていなかったのだろう。だって僕は、色眼鏡で見る側ではなく、見られる側だったのだから。
父の権力、母の職業、喘息、人を突き放す態度――貼られるレッテルの数は相当数だったに違いない。今更『同性愛』という一つのレッテルなんて気にならない。
先生はどんなきっかけで僕を好きになったのだろうか、今までに好きになった人はいるのだろうか、交際人数はどれくらいだろうか……そんな、愚にもつかないことばかり気になるようになった。
僕は先生に恋をしていて、これが先生の言う『愚かになること』なのかもしれない。だとすれば、恋もあながち悪いものじゃない。
恋をすれば何かが劇的に変わるものだと思っていた。でもそれは違った。元々先生は僕の生活に光を当ててくれていて、恋に気付くことによって同時にそれに気付けたのだ。
劇的にではなくゆっくりと着実に、先生は僕の日々を明るくしてくれていた。
「先生、僕は愚かになっているのかもしれません」
今日は先生は夜勤ではないので、本来であればこの場にいないはずだった。だが先生は、退勤後ここに来てくれた。
考えてみれば先生のそんな行動はあまりにも多くあった。多くありすぎてそれが普通になっていたが、これが先生の言う『全て君優先で動いている』ということなんだろう。
そう呟くと、先生は怪訝そうに眉をひそめた。
「言ったじゃないですか。恋は愚かになることだって」
そう言うと、先生は一瞬呆気にとられ、次いで先生には非常に珍しいほど喜色満面の笑みを浮かべた。そして不意に、僕を抱きしめた。
薬品の匂いと涼やかで甘いシャンプーの仄かな匂いとが鼻腔に届く。先生特有の匂いだった。
「ああどうしよう……何を言えばいいのか分からないや」
「嫌ですか?」
「違うよ、嬉しくて――なんて言えばいいのか分からないんだ。今までで一番幸せかもしれない、いや、幸せだよ」
噛みしめるように囁く先生。いささか大袈裟に過ぎないだろうか。それに、そんなことを言っているのに先生は、抱き締めたまま僕に顔を見せようとしなかった。
僕はそれに疑問を覚えて言った。
「先生、顔見せて下さい」
しかし先生は、いや、と首を振った。「何でですか」と問うと、先生は「何でもだよ」と煙に巻こうとした。それで、無理やり腕を引き剥がして先生の顔を覗き込むと、先生は頬を染めて涙ぐんでいた。
先生は見られているのに気付き、バツが悪そうに顔を逸らした。
「大袈裟に過ぎませんか、その反応は」
先生は素早く涙を拭うと、取り繕うように答えた。
「分かってないんだよ、君は。私がどれだけ君を愛しているのか」
「そんなにですか」
驚いて問うと、先生はいつも通りの微笑みを取り戻して首肯した。
「そんなにだよ。どれくらいか例えるなら……ああ駄目だ、陳腐で気色の悪い例えしか出てこない」
「どんなものですか」
先生は少し恥じるように躊躇したが、やがて言った。
「私は凪斗君を地上に降り立った天使だと思っているんだ」
「――それは確かに、陳腐で気色の悪い例えですね」
僕が天使だとしたら、神は相当醜悪で人間嫌いなのだろう。先生は時々突飛なことを言う。面白くて僕は、笑みを零した。それにつられて先生も、曖昧に笑った。
何だかとても愛しくて、こんな気持ちは初めてだった。こんな時に人は『そんなところも好きだよ』なんて言うものなのだろうか。僕の柄ではないのでそんなことは言わないが。
しかし僕は、そんな先生の知らなかった一面を少し後に知ることになったのだ。
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