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1それなら僕も狂うまで

 不意に開いた扉に、僕は不信感を覚えた。今日のこの時間――火曜日の夕食後、六時半を回った頃――は先生は勤務中、ここへ来れるほど暇ではないはずだ。  しかしその疑問は、顔を出した人物によってすぐに解けた。 「よ、凪斗。おかしいな、元気そうじゃんお前」  現れたのは先生ではなく、幼馴染の谷本秀(たにもとひで)だった。彼は外見こそ活発で小難しいことは嫌いそうに見えても、かなりの読書家だ。僕が対等に話せる、数少ない友人だった。 「おかしいって、僕は年がら年中喀血しながら咳き込んでいなきゃいけないの?」  皮肉を交えてそう問いかけると、いやいや、と秀は手を振りながら椅子に腰掛けた。手にはビニール袋が下がっていた。 「受付でこの前『深川さんは容態が不安定で、また本人の意思も尊重して、面会謝絶しております。申し訳ございません』って言われたからさ。容態が不安定だろうと顔ぐらいは見てやろうと思って、適当に違う奴の見舞いって申し出て来た」 「適当に違う奴の見舞いって申し出るなんて――それ、駄目じゃないの」  ほんの少し苦笑すると、秀は、まあまあ、と肩を竦めた。彼は、こういうところの行動力は人並み外れてあるのだ。それが美徳か悪徳かはさておき。  しかし、容態が不安定というのはおかしい。何か間違って情報が伝わってしまっているのだろう。  それに、本人の意思とは何だろうか。僕は面会謝絶なんて頼んだ覚えがない。何故なら、謝絶しなくてもそもそも来る人がいないに等しいからだ。 「バレなきゃよくね? そんなことよりお見舞い、焼きプリンでよかっただろ?」 「ありがとう。ここの焼きプリン好きなんだよね」  自分では喜んだつもりだったが、彼の目にはそうは映らなかったらしい。秀は「お前って本当感情表現乏しいよな、喜んでるのかそうじゃないのか分かりゃしねえ」と吐き捨てた。 「喜んでる。最近食べてないから恋しかったんだよ、これ」 「ん、ならよかった。冷蔵庫の中突っ込んどくから。……てかさ、お前容態が安定してんなら何でまだ退院しねえの? 俺、お前が学校来るの待ってんだけど」  答え辛い質問をされ、少しの間口ごもった。が、何とか言い訳をした。 「そうだけど、念のため。もう少ししたら多分退院できる」  我ながら少し苦しかったか、と思ったがしかし、秀はさして不審がる様子も見せず、ふうん、と相槌を打ったばかり。 「それはいいけどさ、お前単位のことも考えろよ? とりあえずお前が休んだ分の板書のコピーな。読んどけ」  にわかに現実味のある話を持ち出され、僕は顔を顰めた。単位は現段階でも相当まずいことになっているだろう。それこそ進級ができれば儲け物、くらいの勢いかもしれない。  苦い思いで秀平のコピーを見ると、教科ごとに分けてホチキスで留めてあった。非常にありがたいが、これはあまりにも手間がかかっているのでは――秀は僕の視線の意味を悟ったか、安心させるように笑った。 「いいのいいの、それ授業出てるはずの他の奴にも頼まれてるから、そんなに手間かかんねえよ」  秀がお人好しで皆から頼られるのは知っていたが、これでは自分の勉強もままならないだろう。そうは思うがしかし、秀はいつも成績上位に入る。相当な努力家だと僕はいつもながら思う。  それから僕と彼は焼きプリンを食べながら、とりとめのないことを話した。と言ってもほとんど、僕が秀の話を聞く形になったが。  恐らく、先生ほど信用できる人物が他にいるとするなら、それは秀しかいないだろう。そう思うほどに彼とは長く過ごしてきた。何せ、僕と彼の通う高校は幼稚園からのエスカレーター式なのだ。  秀の話を聞けば聞くほど僕は、僕と彼の間に横たわる大きな隔たりを切に感じた。  彼は僕以外にも信用できる人物は山ほどいて、また彼自身も信用されていて、勉強にも運動にも不自由はせず、毎日を明るく健全に過ごしている。  校内では彼くらいしか信用できず、また彼くらいにしか信用されず、運動は喘息が酷くなるので禁止され、勉強も入退院の繰り返しでままならず、代わりに本を読み漁る、不健全極まりない僕の毎日とは大違いだ。  何故僕と彼は仲が良いのだろう。いつも疑問に思う。だが彼がいてよかったと思うのも事実だ。  しかしそんな秀との会話は、突如開かれた扉の向こう側の人物によって断ち切られた。

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