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2それなら僕も狂うまで

――深川さんは面会謝絶では?」  そんな低い声が聞こえ、僕らは思わず扉の方を見た。そこにいたのは、先生だった。先生はにこりともせずそう言うと、扉を後ろ手で勢いよく閉めた。扉は放っておけば自動的に閉まるものなのに。  秀は、やべ、と零して頰を掻きながらも白々しく言い訳をした。 「そうなんですか? 俺、普通に受付通れましたよ?」 「そんなはずはない。受付に嘘を書いてここへ来ましたよね?」  先生の剣呑な眼光に射竦められたように秀は口ごもると、自棄になった。 「そう……ですけど、でも! そもそもおかいしんですよ、だって凪斗は元気だし、凪斗は面会拒絶なんてしてないっぽいし。なあ?」  それは確かにそうだ、と僕は肯定した。  しかし先生は感情を押し殺したような声で答えた。 「深川さんが面会謝絶というのは誤った情報が伝わってしまったかもしれませんが、深川さんはこう見えて現在危険な状態です。いつ発作が起きて呼吸困難になってもおかしくない。分かったら帰って下さい」 「でも、いつ発作が起きて呼吸困難になってもおかしくないってのはいつだって変わらないじゃないですか! 念のため入院なんかしてたらいつまで経っても――」  その言葉を遮り、先生は秀の胸倉を掴み上げ、凍てついた声で言った。 「深川さんの容態については私たち医師が判断することです。だから帰れ」  異様な先生の雰囲気に気圧され、秀は荷物をまとめてすごすごと帰った。僕は先生と思えないような振る舞いに驚いて、何も言えなかった。 「先生、僕、危険な状態なんですか?」  僕は秀が帰ってしばらくしてからそう問うた。先生はいつの間にかいつもの微笑みを取り戻してかぶりを振った。 「いや、そんなことないよ。第一、容態がどうっていうのは君が一番分かるだろう?」 「なら、何で秀にあんなこと――」  秀平の名前を出すと、先生は感情を消した無表情になり、脅すように僕をベッドに押し付けた。僕は身体を固く強ばらせたが、意に介さず先生は囁いた。氷点下の声だった。 「彼の名前は今後一切私の前で出さないでくれ。いいね?」 「……何で、先生は怒っているんですか?」  何故先生は豹変したのか、考えられるのは秀の何かが先生の逆鱗に触れたということだ。しかし何が先生の逆鱗なのか見当もつかず、僕は困惑することしかできなかった。 「君が私以外の人間と親しくしているのが許せないんだ。だからわざわざ、君を面会謝絶の扱いにしたのに」 「先生がしたんですか、面会謝絶に」  僕は改めて先生を見た。温厚で誠実な先生がそんなことをするなんて、思いも寄らなかった。  すると先生は箍が外れたように笑った。聞く者の神経を逆撫でするように狂気じみた笑いだった。 「そうだよ? その代わり私がいつも来ているから構わないじゃないか。それとも君は私じゃ不満かな? そんなはずないよね、この前君は私の愛を受け入れてくれたんだから」  僕に問いつつも一人で完結して、僕が言葉を挟む余裕はなかった。先生は一人でどこか違う世界に行ってしまったかのようだった。  かと思うと、不意に僕に問いかけた。 「私は君さえいれば他の誰もいなくていいと思っている。二人しかいない世界があるのなら今すぐそこへ行きたいくらいだ。凪斗君もそうだろう?」  先生の瞳はいつぞや見たように、呑み込まれそうな闇を抱えていた。突如先生が、言葉の通じない異世界人になってしまったかのような錯覚を覚えた。 「分かりません、まだ。それに、二人だけの世界に行けたとして、あとで先生は後悔するかもしれません」  お茶を濁すように答えると、先生は微かに笑みを零した。 「凪斗君らしいよ。……いいさ、君が私以外に目移りをしないのなら」  先生はいつもの微笑みに戻り、僕の頭を優しく撫でた。さっきとの違いようについて行けず、僕は戦慄する他なかった。 「ほら、おやすみ。もうすぐ消灯だ」  先生がそう囁くので、僕は恐ろしい先生についての思考は放棄し、目を閉じた。  その次の日に目を覚ました後で、秀からもらった焼きプリンからコピーまで全てゴミ箱に叩き込まれていることと、消毒液のような臭いから先生は部屋を一度除菌したのだろうことに気付いた時は、背筋を這い上がる寒気を堪えることはできなかった。

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