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4それなら僕も狂うまで

 その後は悪化するだけ悪化したからだろうか、緩やかに快方に向かった。薬の副作用は苦しかったが、慣れたものなのでとりたてて言うことでもない。その間、言うまでもなく先生は僕の側にいてくれた。  その後、快方に向かいこそはしたが、左脇腹辺りにじわじわと痛みが走るようになった。喘息にこんな症状はなかったはずだが。  それを先生に訴えると、先生は考え込んだ後、血相を変えて部屋を出て行った。そして、少しして僕はレントゲンとCTを撮られることになった。  何故なんだと先生に問いかけても、大丈夫だから、と一言しか先生は返さなかった。  それからの先生は何を話しかけてもどこか上の空で、時々酷く辛そうな顔をした。何だか不吉な予感がした。  その予感は当たった。 「呼吸器外科の笹岡です」  不意に扉が開いたかと思うと、気弱そうな男の先生がそう名乗り、僕の近くへ来た。僕は喘息なのに、何故外科が――その疑問はすぐに、解消されることとなった。  彼は机の上にレントゲンやCTの写真を並べると、肺と左肋骨、恥骨の辺りを指して静かに語った。  その言葉が信じたくなくて、僕は全て聴き終わった後、えっ、と聞き返した。笹岡先生は沈鬱そうな表情をして、一言でまとめた。 「――進行肺腺がんのステージⅣです」 「……先生は、知ってたんですか」  相変わらずどこか上の空の先生だったが、その声で我に返ったように僕を見た。僕がそこにいるのに初めて気が付いたかのように。そして首を傾げた先生に、僕は静かに呟いた。 「僕が、肺がんのステージⅣだってことを」  先生は狼狽えたように黙りこくった。その瞳は動揺を映して揺れていた。やがて僕の視線に観念したように、長く細いため息を吐いた。 「知ってたよ。というより、私が気付いて検査を申し出たんだ。昔、勉強したんだ。左脇下の痛みと血痰は、肺がんのステージⅣの可能性があるって。君は喘息持ちだから血痰なんて気にも留めないだろう? だから、もしかしたら、と」  今までの先生の不可解な様子に納得がいった。それで、今まで何か悪い夢を見ているように実感がなかったが、じわじわと染み込むようにそれは現実味を帯びてきた。  でも――現実を認識した後、僕はどうすればいい? 泣き喚くか、行く末に絶望するか、それとも、空っぽだった人生を嘆けばいいのだろうか。  言葉がしばし、喉元につっかえたように出なかったが、やがて出たのは考えてもみない問いかけだった。 「ステージⅣの五年生存率って、どのくらいなんでしょうか」  先生は宙を見上げ、そのまま煙を吐き出すように無責任な言葉を吐いた。きっと、僕の方を見て言うことなどできなかったのだろう。 「手術のできないステージⅣは一年生存率で表されることが多いそうだ。抗がん治療をした場合でも一年生存率は五十から六十パーセント、五年生存率は大体……一桁だよ」 「つまり、苦しい治療を続けても一年後に生きていられるかは五分五分、五年後にいたっては生きている方が奇跡、と」  まとめると、先生は俯いた。膝に置いた拳は小刻みに震えていた。  先生が僕の嘆く分を代わりに嘆いてくれていて、僕はかえって冷静になれた。気付いたら、言葉が滑り出していた。 「――何のためにここまで喘息と闘ってきたんでしょうね、僕」  先生がこっちを見た気配があった。でも僕はその視線を避けるように、ゆるゆると天井を見上げて囁いた。 「何度も死にかけて苦しい思いをして、青春を磨り潰して捨てて、両親にも世界にも捨てられてまで生きてきたのに、何も残せないままこのまま死ぬんですよ。空っぽな人生じゃないですか」 「……そんなことないよ、私は君がいてくれて良かったと思ってる」  その言葉も中身のない定型文に思えた。  今は一人にして下さい、そう告げると先生は不安げに僕を一瞥すると、部屋を出て行った。

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