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6歪み狂った愛の形

 その言葉を発したのは、今まで沈黙を貫いていた深川さんだった。  深川さんは手に持った本を軽く振ると、薄く微笑んだ。その本は、谷崎潤一郎の痴人の愛。一人の男が愛によって破滅していく話だ。なんて皮肉な取り合わせなのだろう。  深川さんはその場全員の注目を浴びたのは意に介さず、瀬尾先生の目を見て語り出した。 「ねえ先生、先生は以前、親愛と恋愛の境目は愚かになるかどうかだ、そう言いましたよね。僕は違うと思います、その答えを今見つけたんです。僕は――親愛と恋愛の境目は、狂うかどうかだと思うんです」  そして深川さんはなおも続ける。瀬尾先生が乗り移ったかのように、薄っすら微笑みながら。 「確かに、秀や大多喜先生が言うように先生は狂っています。先生は僕を病室に閉じ込めて、秀がお見舞いに来た日には秀が持ってきたもの全て、僕が寝ている間にごみ箱に叩き込んで部屋を消毒していました。挙げ句の果てに盗撮、盗聴。確かに狂っています。  でも……狂っていることの、何がいけないんでしょうか? それが愛故の行動でも、それはいけないことでしょうか?」  深川さんはそして、俺を見据えて問いかけた。 「大多喜先生、貴方は狂った愛で僕が喜ぶ訳がない、そう言いましたよね? それは違いますよ。僕は嬉しいです、尋常ではない行動を取られても。それが僕への愛の裏返しなら、僕はどんな行動でも受け止めます」  背筋が凍った。狂っているのは瀬尾先生だけだと、深川さんはその愛の被害者だと、そう思っていた。しかし違ったのだ。深川さんも既に、愛に狂っていた。  そして、滔々とした語りは続いた。 「愛が清らかな幻想なのは、大衆小説まで。文学作品で描かれる愛は、そんな清らかなものからどこか外れた、歪んだものばかりです。少なくとも、僕が今まで読んだ本の中では。この『痴人の愛』だってそうです。  文学作品が清らかな愛を描かないのは何故でしょう? それは、愛の本質は清らかなものではないからじゃないでしょうか? はたから見たら狂っているように見える、当事者以外には理解できないものだからじゃないでしょうか?」  その場の行方は、完全に彼が握っていた。  深川さんはその後彼を見つめ、どこか申し訳なさそうに笑った。 「秀、心配してくれてありがとう。好きになってくれてありがとう。でもごめん、僕は先生を愛してるから。先生に愛されて幸せだから」  彼の目からは雫が溢れた。やがて、静かに問うた。 「どんなに先生が狂っていても? どんなに先生がお前に執着して、束縛しても?」  笑みながら首肯した深川さんを見て、彼は、そっか、と呟いて笑った。その頬に流れる雫がとても綺麗だったのは、愛する人を手放す、それも一つの愛の形だからなのだろう。 「それなら俺は、もうこの病室に来ない方がいいのか。お前が退院することは――ないんだろうな」 「多分ね。根拠はないけど、快方に向かうとは思えないんだ」  不思議と彼は幸せそうだった。愛する人が幸せだということを、幸せなまま逝けるということを、悟ったからだろうか。  彼はその泣き笑いの表情のまま、ありがとう、そう一言囁き、病室を後にした。これほどまでに重いありがとうを聞いたのは、初めてだった。  それを聞いたら俺も何かが腑に落ちて、俺は瀬尾先生を放した。 「手術器具の無断持ち去り、患者友人への脅迫、患者の盗撮、盗聴、監禁……医師としてあるまじき行為は山ほどあるし、言ってやりたいことだって山ほどある。でも――せいぜい二人で、狂い合ってくれ」  そう呟いた俺の声を聞いて、その日瀬尾先生は初めて、いつものように微笑んだ。それで俺は、自分が恋に落ちた理由と、決して報われないことを知りつつも諦め切れないことを知った。

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