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第31話 嘘、さんじゅういち

 昼休みの生物準備室は、来客がない限りはひどく閑散としている。提出物の点検を終えてから時計を確認して、いつもここへやって来るはずの世界史教師がまだ姿を見せていないことに気がついた。そういえば今日は、廊下ですれ違った覚えもない。  自分と魚しか存在しない教室で昼食の用意をしていると、少し遅れて弁当と水筒を抱えた飯田先生が現れた。豪華なおかずが並んだ惣菜屋の弁当を前に、「最近ね」、飯田先生はいつになく神妙な顔つきでそう切り出した。 「肉が付いてきた気がするんですよね」 「肉?」 「腹の」  メタボってやつですかね、と暗い声が続く。しかしパイプ椅子に腰かけた腹周りを見たところ、とくに大きな変化はないように見えた。 「そうですか? 全然変わってないですよ」 「微妙な変化なんで、服着てるとわからないんですよ」 「大丈夫ですよ。お腹が出てるわけじゃないし」 「出たらもう手遅れですよ」  飯田先生が深刻そうな様子だったので、思わず笑いそうになったのを堪えた。机に置かれたままの弁当にも、一切手を付けていない。 「家内にも言われたんで間違いないです」 「そんな確信持たれても」  結婚してからの飯田先生が持参してくるのは、いつも奥さん手製の愛妻弁当だった。バランスを考えて作られているであろうそれと異なり、今日は時間がなかったのか、珍しく出来あいの弁当だ。透明の蓋からフライらしきものが見えた。 「揚げ物とか避けた方がいいんじゃないですか」 「そうなんです。こんなもの食べてる場合じゃないんです」  ならなぜそれを選んだのか、と言いたいことは心に留めておいて、自分の手元にあったおにぎりをひとつ手に取った。 「じゃあ、これ食べますか? おかずはないんですけど」  飯田先生がうなずいたので、代わりにカロリーの高そうな弁当を譲り受けた。最近は節約もかねて質素な弁当を持参することが増えたので、それと比較してみると随分身体に悪そうに思える。 「新堂先生、太らない体質でしょう」  たしかに、太りすぎたと危機感を感じたことはないかもしれない。むしろその逆で、食料の過剰摂取をしていた成長期のころでさえ、自分は痩せているのではないかと心配になったものだ。脂肪が付きにくい体質ではあるが、同時にこの身体は筋肉も育ちにくいようだった。肉がない割に身長が低いわけでもなかったので、頼りなくひょろりとして見える。昔から、この薄っぺらく貧弱な体格はコンプレックスだった。 「太りはしませんけど、筋肉もつかないですよ」 「細いですもんね」 「筋トレとかしても駄目で。やっぱり憧れるじゃないですか、筋肉」  でも腹が出るよりはましですよ、と自虐的な慰めをしてくれた。 「未来が恐ろしいですよ。腹が出たまま水着とか温泉とか、堂々と出来ない」 「俺も水泳の授業は嫌いだ――」  そういえば、東司くんとの旅行のメインのひとつは海の見える温泉だ。温泉ということは、言わずもがな、全裸だ。それも俺たちはどちらも男であるので、不可抗力で同じ湯に浸かることになる。 「年齢的なもんですかねえ。もう諦めるしかないのかな」  でもなあ、と煮え切らない独り言が遠くで続く。  なぜ思いつきもしなかったのだろう。このままでは、この貧相な身体を彼の前で堂々と晒すことになる。 「どうしたんですか固まって」 「い……いえ」  フライの隣に腰を据えた出し巻き卵を一口頬張ると、ささやかな甘味が口内に広がった。すでに冷えてしまっている。温めた方がよかったかもしれない。飯田先生は片手におにぎりを乗せたまま、まだ贅肉予防について悩んでいるようだ。 「やっぱり運動がいいんですかね」 「運動……ジムとかですか?」 「通おうかな」  本気なのか冗談なのか、溜息を吐いた飯田先生が銀色の魔法瓶から緑茶を注ぐと、注ぎ口から薄い湯気が立ち上った。こののんびりとした人がジムで走っているところなんて、とてもじゃないけど想像がつかない。自分もいまからでも運動をすれば、多少は筋肉がつくだろうか。白衣の下の脇腹を撫でてみる。摘む肉もろくになかった。これでは筋肉になる素さえ見当たらない。 「筋肉……」 「これ、綺麗な三角形ですね」  ラップを剥いだおにぎりを眺めて、飯田先生は噛み合っていない感想を述べた。せっかく褒めてもらったのでおにぎりは得意なのだと言うと、逆におにぎりが下手な方が珍しいと笑われた。 「数日で筋肉がつく方法ってないですかね」 「ないですよ」  生物教師でしょ、と即答で現実を突きつけられた。  その夜、浴室の鏡に映る自分の全身をまじまじと眺めてみた。湯気で曇った鏡に浮かび上がるのは、毎晩見ているものと同じ形をしている。飯田先生が憂いているような贅肉は見当たらないものの、男のわりにはあまり筋肉のついていない身体。見るまでもなくわかりきっていたものを、改めて溜息が出た。  浴室を出てから、明後日に迫った旅行の準備を進めておこうと思い立った。最低でも下着と着替えがあれば何とかなる。まずは着替えだと箪笥に手を伸ばしたとき、背後を明るいメロディが駆け抜けた。東司くんから着信だ。 「おつかれさまです」 『おつかれ。新幹線のチケットとれたから、一応言っとこうと思って』 「あ、そっか。ありがとう」  目的地が少々遠方なのと俺が提案したこともあって、今回は新幹線で出かけることにした。電車と比べて運賃は値が張るけど、時間を有効活用するためだ。 「もう家?」 『ああ。慶は? 何してた』 「風呂上がったとこ。明後日の準備してた」  落ち着いた東司くんの相槌の後ろで、金属音のような固い音が聞こえた。食事をしているところだったのかもしれない。 「ご飯食べてた?」 『いや、コーヒー飲もうと思って湯沸かしてたんだけど、ちょっと寝てたら噴き出してて大惨事』 「えっ、火傷とか大丈夫?」  大丈夫だと言う声が可笑しそうに笑っているので、つられて笑ってしまった。 『夕飯もさ、ひとりだと美味くないな』 「あー、たしかに」  昨夜の夕飯は、東司くんを手伝いながら作ったおでんだった。自分と彼とでは味付けが微妙に違ったことで揉めかけたけど、ひとり暮らしを始めてから具の多い鍋物を食べることは滅多になくて、久しぶりに口にした。  互いの家で夕飯の準備をしたりしてもらったり、日常の中で人と食事をすることが増えてから、たったひとりの食卓はしんみりとした気分になる。ずっとそうしてきたはずなのに、そんな日は往々にして献立も手抜きになりがちだ。 『そろそろ風呂入って寝るよ』 「あ。ちょ、ちょっと待って」  旅行の当日までに、どうしても確認しておきたい。 「す、すごく、ものすごく今更なこと聞いていい?」 『なに?』 「……東司くんて、どういう人がタイプなの」  一寸の沈黙が流れた後、東司くんは本当に今更だと呟いた。 『それ知ってどうすんの』 「どう? どうって……どうもしないかもしれないけど」 『何かする可能性があるんだ』  電話口の向こうで、堪え切れないといった風に笑いが湧いた。ファイリングでもするつもりかと、すでに冗談にされている。真剣に尋ねているのに、笑い話で終了させるわけにはいかない。 「い、いいから。教えて」 『タイプって。なに、外見のこと?』 「うん」  悩むように唸る声がする。どんな返答が返ってきてもいいよう身構えていると、彼が口にしたのはたった一言、「綺麗系」だった。  加々美さんのような美青年と交際していた彼なので、男でも女でも、可愛らしいよりは綺麗な容姿の方が好みらしかった。初めて尋ねてみたのだから当然だけど、そんなことは初めて知った。 「じゃ、じゃあ、筋肉は?」 『筋肉は?』  意味が伝わらなかったようで、浮いた声が不思議そうにオウム返しした。 「筋肉、あるのとないのとどっちがいいと思う」 『そりゃあ、ないよりはある方がいいんじゃない』  ほぼ投げやりな返答を、それでもきっちりと脳内にメモする。やっぱり、ぺらぺらのもやしっこよりは、多少なりとも男らしい身体つきの方がいいのだ。スウェットの胸元を撫でてみる。見た目の通り、大した胸筋は感じられない。  黙り込んだこちらを不審に思ったのか、耳元で名前を呼ぶ声がした。 「……俺、痩せすぎかな」 『なにいきなり』 「今日、飯田先生と贅肉について話してたんだけど、なんか改めて肉がないなと思って」 『肉って。たまに突拍子もないこと言うよな』  幼少の頃から抱えてきたコンプレックスは軽く笑い飛ばされ、ついでに東司くんは気にするなとこれまた明るく言った。事は重大だということが、いまひとつ伝わっていない。 「でも、細いと思う? どちらかというと思うよね」 『まあ、細いとは思うけど。痩せすぎってのは言い過ぎだろ』  全身を眺めてみたわけではないけど、と補足が足される。  そうだ、思えばこれまで、東司くんの前で裸の全身を晒したことがないのだ。ベッドの中で行われる触れるだけの行為の際も部屋は電気を落としてあり、上半身は中途半端に身に着けた衣服が隠し、さらにその上を布団が覆う。目が闇に慣れたところで、やっと相手の表情が窺える程度だ。 「……筋トレする」 『大袈裟だって。細くないよ』 「嘘。さっき細いって言った」  今更フォローされたところで、なんの説得力もない。俺も東司くんの全身を見たことはないが、わざわざ目の当たりにしなくとも触れた感覚でよくわかる。彼の腕や胸は頼もしく硬くて、筋肉の流れが衣服の上からでも伝わる。それに何より東司くんには、何もしなくとも勝手に漂う色気という才能があるのだ。 「東司くんにはわからないんだよ」 『なんだそれ。なにをそんなに気にしてんの』 「俺、筋肉美とか、そういうのとは程遠いし。上腕二頭筋も大したことないし、大胸筋も薄いし」 『上腕って。これなんの話?』  東司くんは声を震わせて言った。笑いごとじゃないのだと制すると、電話口の笑い声がぴたりと止む。しばらく静寂が続いた後、あのね、と諭すような口調で、 『見た感じからして細いの知ってるし、別に慶に筋肉美とか期待してないから』  その台詞を耳にした瞬間、咄嗟に動いた親指が電源ボタンを連打した。東司くんの言葉には続きがあったようだけど、それもただの音になって途切れてしまった。すぐに着信音を流し出すスマートフォンはそのまま床に放り出し、準備も途中だというのにベッドに潜り込んだ。  別に、期待をされたいわけではない。だからといってどうされたいのかもわからないけど、真剣に悩んでいる相手にあんな言い草はひどい。  コンプレックスなんて所詮、他人からするとくだらないものなのだ。そうはわかっていても、この貧相な身体を彼に見せるのはそれ相応に勇気を必要とする。  しばらく悶々と東司くんのことを責めてから、次にやってきたのは後悔だった。身体的コンプレックスで八つ当たりをするなんて、まるで思春期だ。みるみるうちに後悔は罪悪感に変わり、ベッドの下のスマートフォンを起動させた。  東司くんから数件の着信の後、そこまで気にしているとは思わなかった、と謝罪しているらしいメールが入っている。今度はそれを見て落ち着くどころか、さらにむかっ腹が立ち、再び電源を落とした。やはり東司くんのような人には、貧弱者の気持ちなどわからないのだ。  いまから筋トレして、間に合うだろうか。いや無理だ。無茶な提案をしてはひとり打ち消して、毛布で視覚と聴覚を遮断した。

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