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 目を覚ました時、見慣れた天井が視界に入って来たので、セシルはそこが自室だろうと思った。  ベッドの上で横になっている。ぼんやりと瞬きをくり返すと、少しずつ意識が明瞭となって来た。そして、違和感を覚えた。寝具の色がちがう。シーツの匂いがちがう。  強烈な危機感が背筋を這い回り、少年は上体を起こす。そこで眩暈を起こして、シーツに腕をついた。  頭が割れるように痛む。見渡せばそこは見覚えのない部屋の中だった。 「目を覚ましましたか?」  穏やかな声をかけられる。  セシルはハッと顔を上げるが、それがフェルナンドだと気付いた。 「先生……。ここは……」 「私の自室です。君が眠ってしまったので、ここに運ばせてもらいました」 「そうだったんですか……」  事情を知って、セシルは安堵の息を吐く。同時に申し訳なく思った。 「すみません……ご迷惑をおかけしました」 「気にしないでください。お水、飲みますか?」  と、フェルナンドは水差しから水を注いでいる。 「いえ。僕……あ、」  体を起こそうとするが、力が入らない。セシルはベッドの上に崩れ落ちた。 「大丈夫ですか? 初めてのお酒で酔ってしまったんですね」  フェルナンドはさり気なくセシルの隣に腰かけると、背中に手を回してくる。  セシルはびくりと体を震わせた。  次の瞬間、フェルナンドの手を振り払ってしまった。そして、すぐにそれは失礼だったと思い直した。 「……すみません……」 「いえ……」  フェルナンドは穏やかに答える。  セシルは他人に触られるのが苦手だった。誰かから愛情のある接触を受けた覚えがないからだ。他人の手は自分に苦痛をもたらすものでしかなかった。例えばバルト夫人がそうだったように。  特に背中に触られることには苦手意識がある。だから、反射的に振り払ってしまったのだった。  しかし、フェルナンドが触れてきたことに他意はないはず。セシルを支えようとしてくれただけだろう。悪いことをしてしまった、とセシルは表情を暗くする。 「お水です。飲むと楽になりますよ」  フェルナンドが気を取り直したように言って、グラスを手渡してくる。  セシルはそれを受けとって、口に含んだ。冷たい水が喉を潤すと、確かに気分が少しだけよくなったような気がした。 「ありがとうございます……。これを飲んだら、僕、帰ります」 「帰ってしまうんですか? それは少し寂しいですね」 「え……?」  フェルナンドがさらりと告げた言葉に、セシルは目を瞬かせる。 「君とこうして2人きりで話せるの、嬉しいと思っていたんです」  率直な言葉に、セシルの胸がどきりと跳ねた。  フェルナンドはセシルのことをまっすぐに見ている。その距離の近さに、セシルはそわそわとした。  不意にフェルナンドが手を伸ばし、セシルの手を握った。  怖い……! 直感的にそう思い、その手を振り払う。 「ごめんなさい……! 僕、触られるのって苦手で……すみません……」 「こちらこそすみません。でも……気持ちを抑えられないんです。私は君のことをただの生徒として見ることができません。それ以上に、愛しく思ってしまう」 「先生……」  セシルは戸惑ってしまう。彼は妻帯者であったはず、と思い出した。 「あの……先生には……奥さんがいらっしゃいましたよね……」 「家同士が定めた婚姻です。妻には年に数回しか会えていない。私の心にいるのはセシルくん、君なんです」  彼の台詞をゆっくりと噛みしめる。  セシルは言葉を選びながら答えた。 「僕……先生のことが好きです。でも、それはそういう意味じゃなくて……その、上手く言えないけど、そういうことはいけないと思います……。先生の奥さんにだって申し訳ないし……」  じりじりと胸の底を焦燥感のようなものが焦がす。  これ以上ここにいてはいけないと、セシルは思った。 「僕……やっぱり帰ります」 「…………そうですか。わかりました」  フェルナンドがそう答えたので、セシルは内心でホッとした。  だが――次の瞬間。  衝撃が少年の体を襲った。突き飛ばされて、背中からベッドの上に倒れる。即座にフェルナンドがのしかかって来る。 「はじめからこうすればよかった」  そして、彼は野獣のように笑った。  朴訥とした雰囲気が消え去り、捕食者の目つきに変わる。   「先生……?」  セシルは何が起こったのかわからず、唖然とするだけだ。 「セシルくん……私は、君のような子が好きなんですよ。君のように……愚図で、周りになじめないつまはじき者がね」  目をぎらつかせながら、フェルナンドはセシルのことを見下ろす。  その視線の恐ろしさにセシルは凍り付いた。 「なぜって。君のようにかわいそうな子は、少し優しくするだけで懐いてくれます。愛をささやけば愚かにもそれを信じて、体まで許してくれる。何と御しやすく……そして、何と愛しいことか。しかし、君はなかなかに強情ですね。本当は私もこんなやり方、心苦しいんですよ。でも、悪いのは君だ」  ぞっとするほどの冷笑を浮かべながら、フェルナンドが眼鏡をとる。その下から覗いたのは、情欲に塗れた男の表情だった。 「あんなに優しくしてやったのに……とんだ恩知らずのガキめ」 「先生……」  信じたくない。短い時間の間で、セシルは何度もそう思った。  だが、これは現実だ。まるで知らない男のような顔をする先生も、つかまれた腕の痛みも。危機感と恐怖心が全身を一気に這い回った。

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