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第29話

 かれこれ小一時間あまりも、ぶらぶらしていただろうか。靄が薄れてきて、梯子状の光の帯が湖面に幾筋も伸びる。  神々しい眺めにしばらく見惚れたあとで、空腹を覚えたのをしおに(きびす)を返した。  山荘を真正面に見る位置まで戻ってきたさいのことだ。一陣の風が靄の残片を吹き払った。そして車寄せに視線が吸い寄せられた。  正しくは側面に〝奥田商店〟とペイントされたライトバンに。  そのライトバンは、記憶によれば(ふもと)の町の食料品店のものだ。では、哲也が朝っぱらから配達にきているのか。  いや、おそらく配達は二の次で、大方天音に会いたさに車を飛ばしてきたのだろう。 「恋する男は猪突猛進……か」  哲也は天音に骨抜きにされているようだが、天音のほうは、遊び半分で哲也とつき合っている節がある。哲也を焦らすのは愛情表現のひとつなのか、と夕食の席でカマをかけてみたところ、天音は涼しい顔で、こんなふうにうそぶく始末だった。      ──森で哲也にすげなくしたのは、あのときは、あいつをかまう気分じゃなかったからです──  ワインをグラスにつぎ分けると、天音はオープナーからコルクを丁寧に外すことでひと呼吸おいた。乾杯、とグラスを掲げると共犯者めいた笑みをよこした。  ──おれにセフレがいることは、里沙には絶対に内証ですよ。ふたりだけの秘密が増えましたね── 〝ふたりだけの秘密〟。それは甘美な響きだ。  わたしのことを、ざっくばらんに話せる相手、と位置づけてくれているのだと思えばまんざらでもない。それでいてセフレ云々のくだりを思い起こすと、もやもやしたものを持てあます。  天音がベッドの相手をとっかえひっかえしても彼の自由だ。にもかかわらず、ついうっかり哲也と情交に耽るさまを想像すれば、妙にむしゃくしゃする。  なまじっか天音が里沙と瓜二つなばかりに、里沙を哲也に寝盗られたような錯覚に陥るのだ。  ともあれ、わたしと入れ違いに哲也が訪ねてきたのなら、ふたりっきりにしておいてやろう。  山荘を行きすぎて、森に入った。朝露がジーンズの裾を濡らし、夏草の香りにむせ返るようだ。

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