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第37話

「今夜は、やけに小食ですね。江口さんに言って、何か消化のいい、別の料理を用意させましょうか? 東京に帰ったときに痩せこけていたら、里沙に文句を言われます」 「横柄な口調と〝です・ます調〟を流暢に使い分けるんだな。変わり身の早さに感心するよ」    天音は瞬時きょとんとしたあとで、邪気のない笑みを浮かべた。わたしのグラスにワインをつぎ足した。 「被害妄想かな、嫌みを言われている気がします。おれに何か、不手際がありましたか?」 「いや、きみは完璧にホスト役をこなしている。むしろサービス精神が過剰といってもいいくらいだ」  後ろめたさの裏返しで声がとがる。わたしはクレソンのサラダを口につめ込み、ワインで流し込んだ。  皮肉るとは、おとなげない。第一、ここで天音の言葉づかいをあげつらうということは、森の中においてどんなやり取りがなされたのか知っている、と暗に匂わせるようなものだ。  気づまりで、しょうがない。わたしはワインをちびちびと()ることで、気まずさをごまかした。それにひきかえ、天音はフォークさばきも麗しく鴨をさらえていく。  裏庭で虫がすだき、江口さんが鍋を洗う音がときおりそれに混じる。避暑地にそぐわない湿っぽい風がカーテンがはためかせ、テーブルクロスの房飾りを揺らす。  当初の予報は大きく外れ、台風はこの地方に刻一刻と接近しつつある模様だ。  天音が健啖家ぶりを発揮している間中(朝っぱらからセックス三昧とくれば腹も減ると内心、毒づいてしまう自分に嫌気がさすが)、わたしは、たおやかに動く手許をぼんやりと眺めて過ごした。  食後にエスプレッソと桃のコンポートが運ばれてきた。  天音は笑顔で江口さんをねぎらうと、ナプキンを丁寧にたたんだ。背もたれにゆったりと上体をあずけてカップを傾け、ところが唐突に身を乗り出した。 「ボートを漕いだことは、ありますか。誰かを乗せて、数百メートル単位の距離を」 「えっ? ……ああ。公園の池でなら何度か」 「では、夕涼みがてらボートに乗ってみませんか?」

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