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52-1

52-1 「そうか、明日だな」  ソファーに座り、新聞をガサリと捲りながら、秦久彦が呟いた。  パソコンのモニター越しに、その背中を見るともなく見ていた白石は、上司のスケジュールを一瞬で反芻してから、  ――ああ、「(ボン)の引越し」かと、すぐ思い至った。    立ち上がって秦は、「コーヒー淹れろ、シライシ」と言い放ち、自分のデスクのスマートフォンを取る。  白石は、豆とフィルターとコーヒーサーバーを取り出し、電気ケトルに水を入れながら、紺スーツの肩先で秦の様子を窺っていた。  だが秦は、スマートフォンを耳に押し当てたまま、一向に喋り出さない。  そして、何度か画面のタップし直した。  白石がドリップを始める。  ふわりと、香ばしい湯気が立ち上がった。  ひとつ溜息をついて、秦がデスクチェアにドサリと座る。  その前に、白石がコーヒーカップを滑らせた。  カップを手に取り、淹れたてのコーヒーをひとくち含んでから、秦がまたスマホを手に取り、手慣れた指先で何かを入力する。  秦がふたたび、カップにくちびるをつけた。  コーヒーを飲み干す喉の突起が上下に動く――  白石はサーバーを手にし、秦のコーヒーカップへとお代わりを注ぎながら、 「連絡、つかないんですか」と問いかけた。   「ああ」  短く応じ、秦が軽く眉根を寄せる。 「明後日の飛行機だからな。明日ホテルに落ち着いたら、食事でも思ったんだが」 「……まだ五時前ですよ。街でもブラついてるんじゃないですか」  言ってから白石は、これ見よがしに腕時計へと視線を走らせた。 「第一、『(ボン)』が、電話だのLINEだのに応じないのはデフォルトでしょう」  無表情を貼り付けたままの白石の皮肉に、秦がザラリと笑う。 「まあ最近は、それでもマシになったんだがな」  確かに白石の言うとおりで、諒はそもそも、部屋に帰ればスマートフォンをどこかに仕舞い込み、一切、それに応じることがなかった。  「捕まらない」のは、いつものことだと。そう言えばそれまでだ。  だが――  秦は、もう一度スマートフォンを取ってタップする。  そのまま、しばらく画面を見つめていたが、やはり応答は無かった。 「おい」 「ハイ」  「車出せや、白石」  言って立ち上がると、秦はコートハンガーからジャケットを取った。  そして、スラリと袖に腕を通しながら部屋を出て行く。  白石も、急ぎ無言で、そのシルクウールの背を追った。   *  住所は知っていた。  以前のも。そして、つい最近越したばかりのも、どっちも頭に入っている――  そういや、越したばかりだったよな?  もう引き払うのか……。  まったく、家賃だって結構するだろうに。敷金礼金、引越し費用をドブに捨てるみたいなもんじゃないのか?  ホント学生の分際で、重ね重ね、いいご身分だよ。  ツラツラとそんなことを考えながら、白石はスカイラインの運転席に乗り込む。  いつもは「車を出せ」と言いつけたなら、建物の玄関先で白石が車を回してくるのを待つ秦が、今日は駐車場までやってきて、バックシートに乗り込んでいた。  「行き先」を――  訊く必要はなかった。  「それ」とて、すでに白石には分かっていた。  秦の家に泊った諒を、翌朝、部屋まで送ったこともあったから、道順に迷うこともなく、白石は車を走らせる。   そして諒のマンションに着いた。  エントランスで、秦を降す。  秦は、当然のように合い鍵を取り出して、インターフォンも押さぬままエントランスから入っていく。  その背をチラリと見やってから車を発進させ、白石は、すぐに適当な場所を見繕いスカイラインを停めた。    すっかり、日が暮れるのが早くなったな――  薄闇へと沈んでいく景色をボンヤリと見やりながら、白石はシートベルトを外す。    とはいえ、時刻はまだ五時過ぎだ。  ワザワザ、心配して様子を見に来るような時間でもないだろう?  しかも相手は、ハタチも過ぎた男だぜ。   「ったく、あのボンボンには、てんで過保護でいやがんの」  そう口悪く呟くと、白石は溜息めいて小さく笑った。    八角諒――  いつだかの朝、この車の後部座席に座っていたその姿が、白石の脳裏に蘇る。  端正な……端正すぎるほどの横顔。  形の良い頭蓋。  長い睫毛に縁どられた淡い色の虹彩。  ややアシンメトリーに結ばれたくちびる。  そして立ち上がった時の、意外なほどの背の高さ。  「(ボン)」という呼ばれようから受ける印象とは裏腹に相当な長身で。  並んで歩けば、大柄な秦久彦をわずかに上回っていた。 「でもって……クソ脚(なげ)えでやんのな」    またひとつ苦笑して、白石がネクタイの首元に人差し指を指し入れた。  と、ポケットでスマートフォンが振動した。  瞬時に、顔に無表情を貼り付け直すと、白石は画面をタップする。  ――上がって来い。  秦の低い声がスピーカーを震わせた。  それはあまりに唐突で、白石は思わず、 「ハイ?」と、訊き返してしまう。  ――すぐ来いって言ってンだ、白石。何遍も言わせんな。   そして秦は、白石の返事も聴かぬまま、一方的に通話を切った。 「……なんだってんだよ?」  能面の表情で、ひとつ悪態をついて。  けれども身のこなしはキビキビと、白石は車を降りて歩き出す。

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